鈴木卓爾監督×諏訪敦彦監督「『ジョギング渡り鳥』の製作過程から考える映画のつくり方」(vol.3)

インタビュー

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メタフィクション

諏訪:さっき登壇前の打ち合わせの時に、3.11以降にフィクションを作る事に抵抗があるって仰っていたじゃないですか?

卓爾:はい。

諏訪:そういうこともあって、こういうメタフィクションの作品になっていったんですかね?

卓爾:うーん、そう、ですね。僕自身はずっと『にじ』みたいな映画を撮ってたものだから、映画監督になりたいというのが最初にあったわけじゃなかったんですね。
僕の上の先輩では平野勝之さんと園子温さんがPFFで出てきまして、その方々が路上で映画を撮っていたことの影響はすごく強いです。僕は高校三年生の時に平野さんと会って、その前にはアニメーションを作っていたんですけど、実写で自分を撮り始めたきっかけはそこにあったんですよね。20代中盤くらいからドラマを作ってみようと思い立ち始めて、それから15年くらい経て『私は猫ストーカー』という映画を42歳になる時に撮ったんですけど。

諏訪:ええ。

卓爾:『私は猫ストーカー』(2009)を撮った時に、ドラマとしてちゃんとしたものを作らなきゃいけないんじゃないかと思っていたことが、その時のプロデューサーの越川(道夫)さんと撮影のたむらまさきさん、録音の菊池信之さんによって、ことごとく粉砕されていくというか。

諏訪:わかります(笑)。

卓爾:僕はすごく、そこで元に戻っちゃった感覚がありました。

諏訪:今回の映画でまたさらに戻ったというか。

卓爾:ええ。

諏訪:そのような感じを、僕は印象として持ちました。だからある意味で、すごく瑞々しいというか。あの8ミリで撮ってた頃の感覚みたいなものを自分でも思い出すし、「こういう風に映画を作っていいじゃないか」っていうような感じ。

卓爾:うん。

諏訪:(「通常」の映画の作り方と、)全然前提となるものが違うという感じを受けました。

卓爾:理屈で言っちゃうと、原発の事故があったじゃないですか。決定的に、もうシステムはコントロールできないんだ、とたぶんみなさんも思ったでしょうけれど、それでもなおやろうとしてるのは何なんだろうって思ったら、やっぱりお金なんですよね。経済とか。

諏訪:うん。

卓爾:僕達は映画を作ってるけれど、もちろん経済は必要ですし、お金もらわないと映画を作れないとか言ったりする。この自主映画を作ったのも、自分が稼いだお金だったりするわけですよね、あるいは借りたお金だったりとか。だけど映画を撮る中で、その経済の理屈と同じようなことをしたくなくなっちゃった、ってのがすごくあって。僕はそういう思いがすごく強かったのと、中川さんていう純子役をやってくれた人が、ルクレティウスっていう昔のギリシャの哲学者・詩人を紹介してくれたのがありました。ルクレティウスは詩のような著作を残されてるそうなんですけど、その中に原子核の話が出てきて。原子核というのは、あるところで突然、予測不能の動きを見せる、逸脱する。これを、その言葉で「クリナメン」というんです。おお、クリナメンといえばミン&クリナメンというバンドがニューウェーブ時代、80年代にあったなあとか思い出しつつ、中川さんの考えるヒントへの閃きと、僕が持ってきた『ジョギング渡り鳥』という小さなストーリーとを、検証し、みんなに手渡して、全員で個々の登場人物に投影していきながら、共有していきました。昔のギリシャとか宇宙といういつの間にか出てきた設定を頼りにしつつ、まあこの辺りは裏設定なんですけど、僕はその逸脱っていう言葉がすごく気に入っちゃって。ああ、やっぱり原子核も中では自由に動き回ってるんだよねー、っていう。そんな風にやっていくうちに、きっちりドラマを作ることに細心の注意を払う態度よりも、やりたいことを優先してやっていくようになって。俳優がもってるカメラに監督たちが映っても構わない。ていうことになっていったと思うんですね。

諏訪:僕自身が2001年に広島で撮った時にも、やっぱりメタフィクションで。

卓爾『H story』ですね。

諏訪:『にじ』じゃないけど、広島で映画を作ってる僕が監督役、監督「役」とも言えないけど、そのまんま映画の中に自分が出て行っちゃうってことをやりました。鈴木さんに出てもらった『黒髪』は短い短編だけれど、これは3.11の前に撮ってまして。『黒髪』は現代の話ですが鈴木さんと不倫してる女の子の髪の毛が抜けちゃうんですね。

卓爾:ええ。

諏訪:放射能の影響で被爆直後には広島と長崎でも、被爆した人は髪が抜けちゃうということが起きて。それはもちろん現代では起き得ないことだけれど、その恐怖にフィクションとして触れたらどうなるんだろう、ということで、当時は完全にフィクションとしてやったわけ。

卓爾:うんうん。

諏訪:そしたらその後に、これ洒落になんないよね、ってことになった。制作当時はそんなことは絶対にないわけだからフィクションでそれに触れるんだって思ったんだけども、3.11が起きた時に、そういうことをフィクションでやってくことの違和感というか、そうじゃない、という感覚が起きましたね。

卓爾:ええ。

諏訪:これは3.11関係なく、今の映画、現代の映画が触れようとしてるものについて考えました。例えばこれまでフィクション映画が作り上げてきたものっていうのは、“ここではなくてどこか他にある世界を信じさせようとすること”。ここに映し出された世界は、たぶんそのようなことはどこかの街にあるだろう、そういう物語が起きたんだろうということを信じさせるために、一生懸命色んなことをやるじゃないですか。俳優も含め。

卓爾:ええ、ええ。

諏訪:スタッフも、みんなでそれをつくる。そこにマイクが突っ込まれてしまったらその世界は壊れてしまう。

卓爾:壊れてしまう(笑)。

諏訪:そういえば、マイクがばんばん入る映画っていう系譜もあるかもしれない(笑)。

卓爾:あるかもしれないですね(笑)。映ってはいけないものですよね。

諏訪:でも、この世界自体は、もう今の僕達の世界は、壊れてるじゃないですか、既に。

卓爾:壊れています。

諏訪:壊れていて、何も、バラバラになっているってのが世界、なわけですね。

卓爾:そうです。

諏訪:それを、何とか映画の中だけさもつなぎとめて、世界はこのようにあるよね、っていうことを言うことにいったいどういう意味があるのか。それは一つには、慰めでしかない。とすれば、そうではない映画がやっぱりなくてはならない。
だから、この映画には、他の存在、宇宙人たちが登場してよい。彼らにカメラを持たせる、マイクを持たせるっていうアイディアがやっぱり素晴らしいよね。それは色んな面があって、一つは、世界は様々な視点によって見ることが可能なのだってことがあって。どこか支配的な一つの視点から見た世界ではない、もっといろんな世界がありうるんだってことが分かるし。

卓爾:うん。

諏訪:もちろんそこで描いてる世界は、その世界だけを信じればいいわけじゃない、ていうことが全部開かれてしまう。そういう意味では、その割り切り、これでいいのだ、っていう天才バカボンみたいな。

卓爾:開き直りですよね。

諏訪:それが素晴らしいと思うね。