鈴木卓爾監督×諏訪敦彦監督「『ジョギング渡り鳥』の製作過程から考える映画のつくり方」(vol.4)
卓爾:世の中の底が抜けてるのに、どうして映画の中だけ物語が大事にされるんだろう。美男美女が恋愛をしてっていう、いわば何も変わらない「物語」がおかしくてしょうがないし、知り合いのカメラマンがそういう現場で仕事をしていると「何でこういうものを撮ってるんだろう」とふと思ってしまうと、言うのもよくわかるなあ、と。世の中の方がもっとバラバラになっているのに、それをこうバラバラになってないと言う訳ですよね。
諏訪:多くのフィクションはね。
卓爾:ええ。でも、それはそうじゃないだろう、と。もう起きていることなのだから、その上で認識したい。ちょうどこの映画の撮影の時期はそんなことをやっている人はいなかったですが、今はみんな始めていて、自分なりの方法論で起きたことを捉えることをやろうとしていますよね。やっぱり、そういう現実の中にいる人たちが見るフィクションというものを、慰めでなく、もう少しリアルを感じるものにしたかった。しかも、娯楽でもいいんですけども、それをもうちょっと 面白がるというか。それには、もう少し毒の部分を認めなければいけないんじゃないかな、と。なんて茶番なんだろうと思うような世間の「フィクション」に対して、映画のフィクション性が負けちゃうのはすごく悔しいんですね。悔しい。
諏訪:うん。
卓爾:この映画がフィクションか、それは分からないです、僕は全然。ただ、フィクションの枠というのはもう一個外せるぞ、と思ったんですね。
諏訪:うん。もう一つ、ややこしい話をしたくなっちゃったんだけど。3.11の遥か前に、おそらくそういうことをドゥルーズなんかは言ってた。今や現実の方が悪い映画みたいになってしまったじゃないか、と。だから、例えばこういう風に世界を開いていくというか、信じなきゃいけない世界を破いていく、拡げていく映画があって。
卓爾:はい。
諏訪:そういう映画は何をしているかというと、どこか別の世界を信じなさいといってるんじゃなくて、ここを信じろ、と。つまり、自分達が生きていることとか、この世界を信じることを映画は奪ってきたから、それをどうやって還していくか。ある現代の映画は、そういうことをやろうとしている。だから『ジョギング渡り鳥』に出てくるUFOは、やっぱり、信頼すべきUFOなわけ。
卓爾:ええ(笑)。
諏訪:もう、嘘に決まってるじゃない。このUFOは、さもここにあるようにはない。けれど、このUFOは“ここにある”。我々が生きている世界と繋がっているというのを信じること、僕達がそれを信じることが可能になる、というようなことがあると思うんです。
卓爾:ええ。
諏訪:それともう一つ素晴らしいなと思うのは、俳優の人たちが、やっぱりいいんです。
卓爾:ああ。
諏訪:それは何が違うかって、例えばさっきキャスティングの話が出ましたが、「普通のフィクションだと、「はい、この役は誰」っていう風にキャスティングやオーディションで、監督側が選ぶわけじゃないですか。この人がいいかな、あの人がいいかな、って。
卓爾:ええ、ええ。
諏訪:そういう関係で作られてく映画っていうのはほとんど、監督の言うことを従順に聞く人たちの行為が映ってるだけなんですよ。こうしろ、と言われたからはい、ってやるしかないっていうね。
卓爾:うん、うん。
諏訪:でも『ジョギング渡り鳥』は、そうじゃないですよね。何かに従ってる人がいない感じがしました。
卓爾:うん、うん。どうしても「こうして」とオーダーするとみんなそうしてしまいますよね。俳優やってる時というのは。
諏訪:してしまいますよね。
卓爾:僕も俳優やってる時に言われたら従いますもん。
諏訪:はい、ってね(笑)。
卓爾:ええ。意見言うか言わないかも大人として考えちゃうというか、やっぱりそこは、誰も見ていない世界では決してないし、言うことを聞いてしまいますよね。
『ジョギング渡り鳥』
© ミグラント・バーズ・アソシエーション+NPO法人映画美学校
諏訪:特にあの、カメラ演技、撮影演技……。
卓爾:撮影芝居、と舞台挨拶でも言いましたね。
諏訪:その言葉もなかなか素晴らしいんですけど、この撮影芝居、録音芝居がいいですよね。
卓爾:撮影芝居と録音芝居と言うけれど、みんなはお互いを撮ることをしているだけ。それは芝居の中なので。中にはやっぱり数人、天才がいるなあって(笑)。
諏訪:演技でやってるわけでしょ?ああやってマイク振ってるのも。
卓爾:そうです。
諏訪:あれが素晴らしいですよね。
卓爾:カメラマンの友人に聞くと「そういうのは俺は撮れないんだよ」って言うんですよ。なぜって聞くと「だってプロだから」って。
諏訪:ああ。
卓爾:例えば今喋ってる僕達の間にカメラは割って入っちゃいけないって言われてるけど、もうウロウロしてほしいんですよね。
諏訪:ええ。
卓爾:ウロウロしても僕達は揺るぎないし…。カメラマンはそういう人でいて欲しいというのがあって、そこがすごく面白かったんですよね。今回。
諏訪:悪しきプロっていうのは、本来「人間である」ってことに戻れなくなっちゃった人。
卓爾:ああ。「人間」て何なんだって話もあるけど(笑)。
諏訪:(笑)。普通の人、普通の感覚。本来、カメラもってる人はどこに行ってもいいわけでしょ?どっから撮ってもいいわけですよね。この撮影芝居では、こんなとこから撮ってんだとか、カメラ転んじゃったとか、そんなのもありじゃないですか。
卓爾:ええ。もう、その転んだのも含めてありっていう。
諏訪:もちろん、それができなくなることがプロになることでもある訳じゃないですか。これをやってはいけない、これを普通やらない、っていう。
卓爾:そうです、ええ。
諏訪:でも、いつでも、その「普通」はやらないことに立ち返れるっていうスピリットが、本当はプロには必要なんじゃないかな、と思いますよね。そこまで本当に大胆になれるかどうか、っていうかね。
卓爾:ただやっぱり今回、中瀬慧というカメラマンが、客観的なものを全て撮ってるんですが。
諏訪:良かったと思いますよ。
卓爾:あれは、いわば誰でも撮れるわけではない仕事なんですね。
諏訪:ええ。
卓爾:中瀬がそのチョイスをしてくれたから、撮影芝居では最前線でアップを拾っていく、あるいは時にはそれが入れ替わることもできた。俳優部とスタッフというのが完全に切り離されていない。
諏訪:そこが素晴らしい。
卓爾:今回の現場は、すごく面白い作戦でその効果がでたなって思ってます。