川島雄三・今村昌平・小沢昭一・田中絹代・新藤兼人・市川準・犬童一心・・・歴史の伝承を考える夜

タイトルがやけに長いブログですね・・・人名だらけ。
しかし、週末からなんだか人名で溢れております私の頭のなかです。

8日、土曜日に、横浜のシネマ・ジャック&ベティにほど近いリノベーション・アートスペース&カフェ「nitehi works」にて行われた、映画懇談「映画力!」に参加させていただきました。現在このスペースで展開しているグラフィックデザイナー小笠原正勝さんの展覧会「あの遠い日の映画への旅」と、シネマ・ジャック&ベティの60周年記念上映をリンクした企画です。上映4作品(『さらば愛しき大地』『永遠と一日』『悲情城市』『ゲームの規則』)のポスター始め、公開時のビジュアルワークを小笠原さんがなさっているのです。
4作品とも、超傑作必見ですが、うちから横浜がちょっと遠い・・・

「nitehi works」は、シネマ・ジャック&ベティの斜め前に位置する、信用金庫だった建物を改装した、とても雰囲気のいいスペースでした。シネマテーク高崎や、以前の映画美学校や、馬車道の東京藝大大学院など、古い金融関係の建物のリノベーションは、ほんとにいいですね。うっとりします。

映画懇談「映画力!」は、午後1時から夜8時半まで続く4部構成で、私は2部の「映画っていったい何?」という壮大なテーマにお誘いいただきました。
間抜けなことに、来場者にPFFのことを知っていただくための配布資料を持参忘れました。故に、私がどこの誰やら、何をしてるのやら、不明なままで話をしたことが失敗。そして、映画、特に「作品」についての話題になる映画ファンの集う懇談会において、私たちの仕事は、どうしても「つくり手」それも、「未来の、未知のつくり手」に特化されがちであるため、「映画」という、既に眼にするときには「過去」の作品に関する懇談の中で、どうもズレてしまう傾向を、再確認しました。
つまり、ちょっと場違いな自分を感じました。
あまりこういうお誘いを受ける機会はないのですが、過去のいくつかの経験でも同様の感覚を覚えたことがあり、映画の仕事の多彩さを思いました。

実のところ、映画の仕事をしている人間のほうが、映画を好きで観ておられる方々よりずっと映画について語る機会が少ないのではないかと感じることがあり、大変貴重な体験を得、横浜からの帰途、敢えて各駅停車の電車を選んでいろいろ考えていました。あらゆる意味で「映画を伝える」、もしかしたら「映画の伝承」?というのは、大きな課題だなあ、と。

そして、翌9日は、銀座シネパトスでの、「森田芳光祭」でした。
トークのあと、涙ぐむ森田組の方々や、シネパトス閉館を惜しんで製作された映画『インターミッション』のポスターを眼にして、前日も感じていた、「映画の伝承」ということについて考えながら、『北のカナリアたち』を拝見しました。今頃ですいません。ヒット作品は、つい後廻しにしてしまう傾向があります・・・

すごく感動しました。この映画の、次代への映画の伝承に。
黒沢満プロデューサーも、阪本順次監督も、吉永小百合さんも、猛吹雪の中でのこのチャレンジ、素晴らしい。
吉永さんが与謝野晶子を演じ、有島武郎を演じる松田優作さんと共演しておられる深作欣二監督の『華の乱』や、ふとどこかで、吉永さんが田中絹代さんにみえて思い出す市川昆監督の『映画女優』(新藤兼人監督の「小説・田中絹代」が原作)や、あんな映画こんな映画をば~と思い出す、「映画力」の高い映画に、勿論、出演者スタッフすべてに、感動しました。

なんと申しましょうか、名実ともに「生きる映画史」であり「スター」である吉永小百合、という存在をがつっとみせられました。そして、日活の女優が、東映映画を、東映の俳優が、東宝映画を支える(高倉健さんですが)今日の日本映画の現状も、大変波乱万丈面白い歴史であることを再認識していたら、今度は小沢昭一さんの訃報が・・・

この数日の私のひとり名画座テーマは「脚本・今村昌平」でした。
友人に借りた小沢昭一主演、西村昭五郎監督『競輪上人行状記』がものすごくて、即!今村昌平脚本作品の特集を始めたところでした。
勿論、このような企画がすんなり通る時代への感動と嫉妬が伴う、日本映画黄金期作品です。

そして、小沢さんと今村さんと言えば、川島雄三監督。
「小説・田中絹代」はじめ、新藤兼人監督は、師・溝口健二監督にまつわる作品や著書を残しておられますが、今村監督の川島雄三伝「サヨナラだけが人生だ」も名著。
川島さんといえば、日活。今村さんも、松竹から日活に移籍したことで川島監督に出会えたわけで、映画会社という明確な雇用機関があった時代に、崇拝する監督のもとで腕を磨いたあと、独立プロダクションを設立して、金銭的に苦労を重ねた今村さん(新藤さんも勿論ですが)。50~60年代のそうした独立プロで鍛えられた監督たちの時代のあと、80年代あたりから、自主映画から始まる監督たちの時代が来る訳ですが、では、そこでは伝承は?と思う時に、市川準さんを思い出します。

市川準監督は、最初にPFFの審査員として参加くださった89年には、スカラシップ作品『大いなる学生』のプロデュースをしてくださり、二度目、94年にはグランプリ『寮内厳粛』の佐藤信介監督を脚本家として抜擢くださり、PFF25周年記念のパーティーにお招きした際には、その年の入選作品を観てくださり、また、犬童一心監督の自主映画『ふたりが喋ってる』をみて感動するとすぐ、突然の電話で犬童さんに『大阪物語』の脚本に依頼し、その犬童監督がPFFの審査員として知った群青いろの作品の話を聞いて、早速観て下さり、即出演などの抜擢をくださったりと、「力のある者は、無名の者にチャンスを与える」ということを、常に実行下さる方でした。その偉業を、犬童監督が継いでおられることに感動します。

なんでしょうか、このだらだらと長いブログは。
学校という場所で、映画の技術や経験や思想の伝承をするという動きがピークに達している感もある現在の日本。いえ、世界的傾向でもあるのですが。
商品としての映画が弱体化して、映画の定義も多様化して、伝承のポイントを探している映画の世界、という感を再確認してみたこの数日の私。
「伝承」は、これから一層大きな課題になりそうです。
映画のみならず、映画祭も、あるいは、あらゆる場面で。
「力のある者は、その力を未来の人のために」
ですね。