釜山の報告が、若松監督の訃報に茫然となり・・・
5年ぶりの釜山国際映画祭参加は、私にとって非常に重要な体験となり、このブログでは、そのご報告を、といろいろ考えていましたら、まさかの若松監督の訃報に、釜山報告も東京国際映画祭も、まっしろなままになってしまいました・・・
23日のお通夜、24日の告別式と、私たちもお手伝に伺うのですが、特に海外の若松ファンのために、英語のfacebookを特設してみました。
日本語を使わないご友人にお伝えください。
若松監督には、2004年のPFFアワード最終審査員をお願いして以後、特に頻繁に企画をご一緒させていただくようになりました。PFFin仙台で『17歳の風景』を中心にした特集の際、地元の友人、知人の来場時の照れくさそうな感じや、2010年の『キャタピラー』がコンペティションに出品され、ベルリンでご一緒した際の嬉しそうなお顔、続く、PFFでの特集で、突然のデビュー作上映の居心地悪そうな様子など、次々と思い出されます。
へんな話ですが、立川談志さんがお亡くなりになった際に感じた「全身落語の人がいなくなるわけがない」という感覚が、今回もわ~と立ち上がってきました。「全身映画の人がいなくなるわけがない」という感じです。
ですので、いまだに、現実を実感できていない私です。
若松孝二、という存在を後世に伝える際に、「映画」プラス、その「人」の存在そのもの、を、どう伝えていけばいいのか、を、考えています。
「若松孝二という人そのもの」を伝えるという課題は大きいなあと、茫然としているこの3日間です・・・
*余談ですが、海外では、交通事故というニュースに、「暗殺?」という話が出たそうです。テオ・アンゲロプロス監督の交通事故もそうだ、という話が今も根強く出てくるそうで、そういわれれば『ゴーストライター』にもありましたが、歴史上、最も使われるその方法は「交通事故」。ボーンシリーズはじめ、CIA関係の映画をみたあとなどは特に、「ふむ」と思う話ではあります。