エンターテインメントの力

今ちょっと私怒っています。それはもちろん、馬鹿馬鹿しさ1万パーセントの内閣不信任案提出です。怒るとますます中学生化してくるので、幼稚なブログですいません。国の危機を何とかしたいというより、自分たちの存在の危機を何とかしたいという感じに、茫然とさせられます。更には、漫画や小説にあるように、「これって、大きな問題から私たちの目を逸らすための大芝居?」とまで思えてきます。映画の見過ぎですか?
全く報道されませんが、三日前にはコンピューター管理法=サーバー法案が通過していますし、3月には、年間2000億円の「思いやり予算」を5年間米軍に支払うことも決定しています。「過去からの声を継続する」ことと、「管理をすること」が仕事と思ってるんだろうなあ・・・という現実を感じます。具体的に、国政に携わる人々は一体これからどんなことをしたいのか、どんなビジョンがあるのか、具体的に何が失敗だと認識し、何をどう改善するのか、明確なものが見えません。そこが怖くてたまりません。何故なら、ビジョンのない人たちは、過去に固執し、変化を恐れるからです。そして、国政に携わる人たちは、権力と国家予算を持っているのです。

映画の学校などで、たまにお話することがあるのですが、繰り返し伝えたいと思うのは、「映画の仕事」も他の仕事も、この世の中の仕事は全部同じであるということです。目的があり、それに向かう準備と実行と結果がある。そのプロセスをより早く、安全に、確実に、そしてよりよく進めるために、技術と経験を身につける。あるいは、秀でた人の力を借りる。全ての仕事は、コツコツとした地味な作業の集積です。でも、どうも、映画の仕事には特別なものがあるという幻想がある。勿論「幻想があるうちが花」とも言えますが、そこにある「特別なもの」は、多分、映画に限らず、「どんな苦労も苦にならない」かどうか、ということなのではないかと思います。そして、そのことも、まず、コツコツと仕事してみないと、発見できません。
でも、政治の仕事は、このプロセスのない場所?と感じるのです。それも怖さの原因のひとつです。いや、どんな場所にも、まともに仕事している人はいます。まとめて一括りにしてはいけないですね。ごめんなさい。

そんな「仕事のプロセス」というものを、具体的に目撃できるのが、もしかしたら、日に日に拡大を続ける「シルク・ド・ソレイユ」かもしれません。1984年にモントリオールから始まって、現在、世界各地に常設劇場を展開するこの新しいサーカス。映画のサーカスのイメージから、その"哀しみ"(フェリーニの「道」とかね)が少々辛く足を運ばず、誠に遅れてきた観客となった私ですが、彼らの非常に高度な仕事の技術に感服しました。
人を幸せにするために、自らの肉体と技術を使い、素早く、安全に、確実に、そして見事なチームワークで表も裏も仕事する姿を、多くの人に見てもらいたいと、今頃言ってる私です。(小学生の時にみたら、きっと中学校では新体操部に入ったね!と一瞬思ってしまいました。まあ、有り得ないでしょうけど・・)
そして、エンターテインメントの力は「命がけの仕事に必ず伴う哀しみ」にあるのでは、とも同時に思いました。古いタイプのサーカスにある哀しみは「漂泊者の哀しみ」という面が強いのですが、「シルク・ド・ソレイユ」のパフォーマンスにも、ある種の哀しみが漂います。それは、人前で肉体をさらし緊張と美を持続する高度な仕事=エンターテインメントにおける特有の哀しみではないかと思います。そこが、エンターテインメントが、一過性の楽しみでなく、観客の人生の投影を受け得る、持続性のある喜びをもたらす、人類に不可欠なものであり続ける由縁ではと思いました。

ところで、最近は、映画『トゥモロー・ワールド』のことが年中頭にぐるぐるしてます。311以来、あらゆるディザスター映画が記憶の底から浮かんできてるのですが、最近はこればかりです。