No.45:フィルムで映画を撮るということ(3/3)
フィルムで映画を撮るということ
文:蔦 哲一朗(PFFアワード2009『夢の島』監督)
フィルムにこだわり、世界をギャフンと言わせたい!
少し話はズレたが、ニコニコフィルムの初期がどういったものだったかを話させていただいて、我々にとって、フィルムの味がどうとか、デジタルのパキパキした画が嫌、といった部類の話がいかに愚問かということがお分かりいただけただろうか。デジタルがどうとか、フィルムがどうとか、ぶっちゃけどうでもいいのである。我々は、フィルムで映画を撮ること以外、興味がないのである。もちろん、デジタルで映像を撮る機会も沢山あるが、正直私は、それを映画だとは思っていない。デジタル映像として頭の中で、差別している。フィルムで撮ること以外、私は燃えない(萌えない)のである。フィルムで撮る映画以外は映画ではないと、仲間たちと体験してきた時間が私を洗脳し続けているのである。その洗脳から逃れることは、今のところできる気がしない。デジタルがどんなに綺麗になろうとも、フィルムルックに近づこうとも、所詮は偽物。仲良くはできても、信頼はしていないのである。
なんだこいつ、子供みたいなわがまま言いやがって、と思われるかもしれないが、私たちは学生時代からいつも、何も考えずにデジタルカメラをただ回しているチャラチャラしたサブカル学生たちに、「これが、映画なんだ!」と、童貞集団がフィルムでギャフンと一矢報いてきたのである。その劣等感をフィルムで克服してきた経験こそが、現在ニコニコフィルムが天然記念物として、世に貴重がられている要因であると私は思う。もちろんそんな童貞たちの劣等感だけではこれから先は通用するわけないことは、重々承知しているわけだが、ただおおもとは変わらないと思っている。ヨーロッパ映画やハリウッド映画にも負けないフレームで世界をギャフンと言わせてやるという姿勢は、今後も私たちの映画を作るモチベーションの根幹である。
過去の名作たちと共にいかに次世代に残っていくか
という訳で、我々ニコニコフィルムについて語らせていただいたが、とても人にフィルム撮影を薦められるような理念ではないことが、ご理解いただけたら幸いである。デジタルカメラでの登場によって、撮影できることの幅はかなり広がったと思うし、同世代の才能ある方々の作品を見ていると、巧みにデジタルカメラを使っているなぁと思う。フィルムでは撮ることができないであろう素晴らしいデジタル映像に出会うことは、同じ作り手として喜ばしい限りである。いや、本音は、目指しているところが違うんだな~と、対岸の火事ではないが、対岸で花火をして遊んでいる人々くらいに思って眺めている。
来世紀には残ってもいない媒体になど、興味はない。私たちが目指しているのは、過去の名作たちと共にいかに次世代に残っていくかである。過去の名作はすべてフィルムである。つまりは、フィルムでさえ残しておけば、黒澤明作品や小津作品と共に、新媒体に変換される可能性が残るのである。大企業の掌で転がされている昨今のデジタル媒体たちが30年後に残っているかは、私は疑わしい。自分で常に新しい媒体へ変換していく以外、道はないのである。そして、その時にその労力とお金があるかは、わからない。しかし、目先の効率性と予算軽減によって、デジタルで安易に映画を撮るということは、原発問題と同じく、自分たちの経済的利益しか考えていない、映画に関わる者としての美意識を欠いた後世への侮辱とも言えるのである。
フィルムで映画を撮るということは、つまりは覚悟の問題であると思う。映画の歴史に責任を持って作っているかとも言える。昨今フィルムで撮影をしている方々は皆、大御所か若手の暴君のように思う。それは、映画を拝見させていただくとわかるが、映画が放つ“メッセージ力の距離”が他の方々と違う。どこに向けて作っているかが、自然とフィルムを選ぶかどうかということにリンクしているように思う。映画の持つ距離。それが長ければ長いほど、今はフィルムを選ぶしかないように私は思うのである。
蔦 哲一朗Tetsuichiro Tsuta
1984年生まれ、徳島県出身。PFFアワード2009入選作の『夢の島』が東京会場で観客賞を受賞。続く、地元・徳島県を舞台に撮影した『祖谷物語 おくのひと』はトロムソ国際映画祭でグランプリを受賞するなど海外からも高い評価を得ている。
⇒『祖谷物語 おくのひと』の国内の公開予定は公式サイトでご確認ください。