石井裕也監督に聞く「不安は克服できるのか?」(vol.1)

インタビュー

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ゲスト:石井裕也監督(以下、石井監督) 
進行:荒木啓子PFFディレクター(以下、荒木D)

昨年、2014年9月23日(火・祝)東京国立近代美術館フィルムセンター・大ホールにて、第36回PFFの特別企画「映画監督への道」として、『舟を編む』、『バンクーバーの朝日』で大注目の若手監督・石井裕也監督に登壇いただきました。
当時の最新作『ぼくたちの家族』の上映と、「不安は克服できるのか?」をテーマにトークイベントをおこないました。

荒木D:『ぼくたちの家族』は2014年に制作された20代最後の作品ですが、30歳以後の自分はどうなっているか、イメージはされていましたか。

石井監督:漠然とでしたが、ありましたね。30歳になれば自然に何かが変わるんだろうと思っていたし、いつまでも若いんだという姿勢はやめようという意識はありました。

荒木D:何となく歳を重ねていく上でご自身の成熟のイメージがあるということでしょうか。

石井監督:あります。37歳で止まっているんですけどね。母が37歳で亡くなっていて、37歳でも死ぬ人は死ぬっていう感覚が小さい頃からずっとあるんです。誰とも共有できない感覚かもしれませんが、そこを一区切りに何かを終わらせようという気持ちはずっとありますね。

荒木D:映画を仕事に選んだ時に、映画は短期間ではできない仕事ですよね。37歳までに撮れる映画の本数の計算はありますか?

石井監督:今はないですが。自主映画時代はありました、計算が。この辺で自主映画を終わらせようという何となくの人生設計はありましたね。『剥き出しにっぽん』から4本で自主映画はやめようと決めていて。やりたいことは4本でやりきろうとしました。際限がないですからね。

荒木D:今はプロデューサーがいて、他人のお金を使って、他人と組んで商業映画を撮っているわけですが、それまで自主でやっていた時の商業映画の映画づくりのイメージと最も違ったことは何ですか。

石井監督:まず関わっている人が多いですよね。自主は企画から配給、人に見せるところまで全部自分でやりますが、商業だと現場に大勢のスタッフがいるし、細かいところまでいけば車を運転する人もいて。こんなにも多くの人が関わるということは、当時はさすがに想像できていませんでした。

荒木D:『バンクーバーの朝日』はご自身の最も大きな規模の作品になりますが、その大勢の役割の把握において何が大事かはどう掴んでいきましたか。

石井監督:そればっかりは『バンクーバーの朝日』に限らず、その都度やってみないとわからないですよね。それまでの論理や方程式は通用しないので。人が増えて大変な一方で、人が多いからこそできたこともありました。僕なんかより経験があって、面白いアイデアをくれる技術スタッフももちろんいて、その力を利用するというか作品の力にしていく作業は面白いです。

荒木D:人の力を借りながら物づくりをしていく上で、意識していることはありますか。

石井監督:作品についてひたすら考える、ということですかね。「最もこの作品に思い入れがあるのは俺だ」という姿勢を持ち続けること。そうでなければ人を動かせないし、大所帯で映画づくりはやっていけないと思うので。