対談:斎藤 工×奥山大史「僕たちがロイ・アンダーソン愛を叫ぶ!」

映画祭ニュース

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第42回ぴあフィルムフェスティバルでは、『ホモ・サピエンスの涙』が昨年の第76回ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞(最優秀監督賞)を受賞したロイ・アンダーソン監督の特集上映を実施! 鮮烈な長編デビュー作『スウェーディッシュ・ラブ・ストーリー』(1970)、大きな挫折を味わうことになった2作目『ギリアップ』(1975)から、25年の雌伏を経て復活を遂げた『散歩する惑星』(2000年)に始まる"リビング・トリロジー"、さらには貴重な学生時代の作品を含む短編作品まで全作品を紹介する。

これを記念して、俳優のみならず監督としても活躍し、ロイ・アンダーソンを敬愛する斎藤工氏と長編デビュー作『僕はイエス様が嫌い』が国内外で絶賛され、同作を携えてストックホルム国際映画祭に赴いた際に、ロイ・アンダーソンの制作スタジオ「Studio 24」を訪れ、ロイ・アンダーソン本人とも対面を果たしたという奥山大史監督による対談が実現! コロナ禍にあるいまだからこそ見るべきスウェーデンの巨匠の作品の魅力について熱く語り合った。





美術館の絵を見ているよう?ロイ・アンダーソン作品がもたらす不思議な感覚

荒木啓子PFFディレクター:長編2作目の『ギリアップ』の失敗で、一度は世界から見放されたロイ・アンダーソンですが、そこからCMの世界に進出し、25年間あきらめずに復活を遂げたことに感動しています。

今回「ひとつを極める」ということを堂々とやろう! ということが伝えたくて特集上映を決めました。自分のスタイルを極めるということ――これからの映画監督の道はそこにしかないんじゃないか? その勇気を持ってほしいなと。

斎藤:今回、この特集上映のための企画として、奥山監督との対談というお話をいただいたとき、ロイ・アンダーソンと奥山監督の交点が、作品の中にある気がして、すごく自然に感じたんですよね。

ロイ・アンダーソン監督が今後のキャリアで、あと何本、映画を作れるかと考えたとき、彼自身がいろんな芸術家から感覚的なバトンをもらったのと同じように、彼がバトンを渡そうとしている若い存在がいて、その中に奥山さんがいることがすごく自然だなと。奥山さんにとって、ロイ・アンダーソンという存在は...。

奥山:独特の空気感を持っている監督が好きで、そういった意味でジャック・タチとかも好きなんですけど。その空気の濃度が一番高いのがロイ・アンダーソンなのかなと。なんていうか...昼に二度寝した時に見ちゃう夢みたいな、なんとも言えない感じがあって。あとは、まるで美術館で絵画を見ているように1シーン1シーンをじっくり見ていけるところも好きなんです。

斎藤さんの監督作を2作ほど拝見したんですが、表現的な意味では、ロイ・アンダーソンがお好きというのは意外な気もしました。どういったところがお好きなんですか?

斎藤:娯楽映画というより、かつての名画や芸術と、映画というフィルタで戦っている文法を感じる監督なんですよね。(同じく北欧出身の)アキ・カウリスマキとかもそうで、そういう人たちの作品が、自分の琴線に触れるんだなと学生時代に気づいたんですよね。線引きがハッキリあるわけじゃないけど何かが違うなと。

もしかしたら、100年後に届くかもしれない――まさに美術館で見る芸術に近いですね。「永遠性」みたいなものを感じます。夢の中で夢と気づいても、奇妙でも滑稽でも、なぜかその世界に準じてしまう自分の意識みたいなものがあると思うんですが、まさにこのフィルムメーカーは、そういう世界を意図的に描いてるんですよね。

わりと悲劇を描いているんですが、必ずしもハッピーではない「負の遺産」を美しさと一緒に未来へとバトンをつないでいくということを最もしているのがロイ・アンダーソンなんじゃないかと思います。それが言葉で補われるんじゃなく、感覚的に残っていくんですよね。彼の作品の記憶って、不思議と「空間」として残っていくんですよね。平面で見たはずなのに、空間が残っていくという、実はすごい体験をしてるんじゃないかと感じます。

奥山:確かに悲劇を描いていたり、悲劇と言わないまでも情けない生き様を連続的に描いていますね。最新作の『ホモ・サピエンスの涙』で、花に水をやっている女の子に声をかけられない男の子を見て、坂本九の「明日があるさ」を思い出しました。あの曲と同じように、一歩踏み出せずに幸せが訪れない人々を描いてて、そこから「でも、あなたたちは今を生きてて、明日がある」と伝えてくれてるんだなと気づきました。それは(2000年の)『散歩する惑星』からそうだったんですけど、今回のそのシーンを見て、やっと気づけたんです。絶望を描くことで逆説的に希望を伝えているのだな、と。


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『ホモ・サピエンスの涙』(C)Studio24





見る人間の映画鑑賞IQが試される!アフターコロナの時代に心に響く映画作品の条件とは?

斎藤:彼の作品を見て、日本で映画を作ることと海外のフィルムメーカーの根幹の部分の違いを感じるというか...。近年のロイ・アンダーソン作品はアップがないんですよね。どういう空間で彼の作品を受け取るかを彼に指定されてる気がして、それは、映画を見る人間の作品を捉えるIQが試されてるということなのかもしれないなと。

でも、日本で映像を作るとなると、「わかりやすさ」を求めてIQを下げていかないといけない部分がある。お客さんは、ながら見をしてたりするし、長回しは飽きられやすいし、映画がスマホで見るものであったり、映画の土俵がサブスクになりつつあって...。

今回の最新作を見て、"美術館"感があるというか、これが僕の思い描く映画芸術なのかなと感じました。街中での十字架のカットとか、すごく奥行きを使ってて、画角を熟知し、数学的な計算の上でセットを組んでるけど、日本だと、こういう画を撮りたくとも企画の段階で通らないんじゃないかなと。

ただ、一方で、先ほども言いましたが、僕は奥山作品にロイ・アンダーソンの"におい"を感じる部分がすごくあるんです。奥山監督がこれから映画を作っていく中で、ロイ・アンダーソンが言葉じゃなく、伝えてくれたものというのをご自身で感じますか?

奥山:ちょっと質問とずれるかもしれないんですけど、ロイ・アンダーソンの描く世界って、本当に"コロナ後"の世界だなと感じるんですよね。それは今回だけじゃなく『散歩する惑星』でもそうで、なんで渋滞してるの?なんで老人ばかりで子どもが出てこないの? なんでやっと出てきた少女が...とか全く説明がない。でも、とにかく世の中がよくない方向に進んでいるという感じがどこか"いま"っぽいし、不気味さを感じたんです。そういった現代を風刺したり未来を予見したかのような"におい"には憧れますね。

直接的なロイ・アンダーソンからの影響という点では、ワンシーン・ワンカットであまりアップを使わないというのは影響を受けていると思います。ロイ・アンダーソンは絵画の影響でそうしているらしいですけど、僕がその手法を用いるのは、カットを割ってしまうことで感情が途切れちゃうことがあるからです。ワンカットで描くことで、切れ目なくシチュエーションを切り取れる。

ただ一方で、ストーリーテリングという意味では、完全にカットを割らずにワンシーン・ワンカットでつなげていくとなると、ひとりの主人公を際立たせることができず、どうしても群像劇になっちゃうし、コントの連続みたいになって一本の映画として成立しなくなっちゃう。そこは僕自身、までできていない部分なんですが、ロイ・アンダーソンは『散歩する惑星』でいきなりそれを成立させた。すごいなと思いました。

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『散歩する惑星』

斎藤:学生時代の作品を見ると、主人公が(当時の監督と)同世代じゃなく、年配の方だったりするんですよね。"老いていく人間"をひとつのフィルタとしている感じを受けました。考えすぎかもしれないけど、1枚の絵の中で生き続けている――永遠を手にしている人間が老いているというのは、輪廻みたいなものを感じるというか、すごく意味深いなと。

学生時代の映画って、同世代の役者志望の子たちを使って撮るってイメージがあったので、そういうのがない(笑)。奥山監督も初長編作では、下の世代(=監督が経験した世代)と上の世代(=これから経験する世代)に挟み込まれていて、そこに奥山さんというフィルムメーカーのフィロソフィが描かれている気がしました。

奥山:僕自身、長編はまだ1本しか撮っていなくて、それは実体験を元にしたものにしようと思って作ったので、必然的にそうなりました。ただ、悪い意味での「学生映画っぽさ」はなるべく排除していきたかったので、企画段階で同世代ばかりが出演する映画を撮るのは辞めよう、と考えていた気がします。

斎藤:それから、僕はロイ・アンダーソンは「静止画に挑んだ映像作家」だと思っているんですが、奥山監督も写真家であるご家族の影響があるんじゃないかと。写真って、ある意味で映画より映画的だったりもするじゃないですか。

奥山:(写真家の)兄の影響は無意識にあると思いますし、それこそ兄から教えてもらったスウェーデンの写真家で、ロイ・アンダーソンより年下ですがすでに亡くなっているラース・ツンビョルクの影響もあるかもしれません。構図の切り取り方や光の当て方が、魅力的なんです。ロイ・アンダーソンも写真家の影響を強く受けていると思っていたんですが、実際にお会いして聞いてみると「写真家からの影響はほとんどない。僕はとにかく絵画に影響を受けている」と言っていました。

ただ「キミがそう思ったのは、キミがそう感じた写真たちも僕と同じように絵画の影響を受けて撮られているからじゃないかな?」とも言われました。

斎藤:なるほど、面白いですね。日本でも石井裕也監督(※今年のPFFで『生きちゃった』がオープニング上映される)の『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』は、最果タヒさんの詩を原作にしていますが、あの作品がある意味で"反テレビ"的で、僕が好きだなと感じたのが、男女の恋物語なのに、物語が展開していく重要シーンがほぼなくて、すべてが事後だったりする。よくある漫画原作の作品と比較したときに、これは企画が普通は通らないだろうなぁと。「言語化できないから映画にしてるんだ」という映像作家の根本みたいなもの――石井監督の日本映画へのひとつの提唱のようなものを感じたんですよね。

1~2行の詩から映画を作り、説明的なカット割りで展開を見せるというドラマ的な過程を全部そぎ落とし、ことによっては成立しないものを制させるという"戦い"を感じました。ロイ・アンダーソンもそうですが、そういう人の映画って、芯を食っているから、いまのコロナ禍みたいな「まさか」という状況に陥った時に、すごく響くんですよね。「あ、いまを描いている」と感じられる作品というのは、振り返ってみても、そういう戦いをしている人たちの作品なのかなという気がします。

今回の最新作『ホモ・サピエンスの涙』を見て、年齢的に彼があと何本撮れるかということも含めて、強いメッセージ性を感じたし、だからこそロイ・アンダーソンと奥山監督が交点を持ったというのが面白いなと。今後、奥山さんがロイ・アンダーソンの養分を吸収しつつ、奥山さんなりの表現を作っていくんだろうという期待を持っています。

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「メジャーとインディーズの垣根をなくしたい」(斎藤)

荒木:斎藤さんもどうなっていくのか楽しみですが。

奥山:斎藤さんが総監督を務めた『COMPLY+-ANCE コンプライアンス』を拝見して、すごいエネルギーを感じました。誰もが知る映画やドラマ、CMに出ている斎藤さんが、ああいう作品を作るということで、怒りや皮肉がダイレクトに伝わってきて、面白いなと。岩切一空監督だったり、PFF出身の若手監督を巻き込んでああいうものを作るというのも素敵だなと思いました。

斎藤:嬉しいです。去年、PFFに関わらせていただいて、入選した監督の作品のビジュアルを(PFFとゆかりのある都内の美術系/芸術系の)大学でデザインを学んでいる学生さんがポスターにするというメチャクチャ素晴らしい企画があったんですよね。今回の自粛期間中、井浦新さん、渡辺真起子さんと一緒に「ミニシアターパーク」を作って、「役者ができることをやっていくべきだ」と日々話し合ってたんですが、この機会に、「メジャー」と「インディーズ」の垣根を越えて融合していくべきじゃないかと考えているんです。

『COMPLY+-ANCE コンプライアンス』はある種、メディアミックスなんですけど、メジャーじゃない学生さんが作った映画で、(学生のインディーズ作品に)役者さんをキャスティングしたり、主題歌を提供したり、コメントを出したり、イベントに参加するということもそうだし、あとは僕はナレーションをやれたらいいなと。誰かがやれば、きっと他の役者も続くだろうし、そういう(メジャーとインディーズの)橋渡しを僕らがしていくべきなのかなと思っています。

先ほど、話に出た学生の皆さんのポスタービジュアルが本当に素晴らしくて、商業映画が明らかに負けているような練られたものだったんですよね。そこ(=メジャーとインディーズ)のつなぎ目みたいなものを果たすのが、自分の役割なんじゃないかって思ってて、「自分の立場だからできる映画芸術への貢献を模索すべきなんじゃないかなと考えています。

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奥山:それこそロイ・アンダーソンの映画ってすごくお金がかかってるけど、有名な役者はいなくて素人の俳優を使ってますよね。そういうところは、プロの役者さんから見てどうですか?

斎藤:うらやましいというか、かなわないなと感じますね。ロベール・ブレッソンもそうですが、「プロの役者」という枠組みにはもう失われたうまみを感じるというか。「(その俳優のことを)誰も知らない」ってことの価値が確実にありますね。観客からその役としてしか見られないということが、最大の価値だと思います。

映画が、どれだけ「作られた」ものであっても、そこに本当の"何か"がどれだけ宿っているかだという気がしてて、気づいたらその世界に引きずり込まれてる――ロイ・アンダーソンの映画ってファーストカットからそこに引きずられている感じがするんですよね。映画を役者ありきで見に行く人もいると思うけど、さっきも言ったようにロイ・アンダーソンというフィルムメーカーが与えてくれる「空間」の記憶というか、あの場所にまた行きたいという場所を与えてくれて、じっくりと絵を鑑賞するような感覚、役者が誰かってことではそもそもないという強さがありますよね。




CMディレクターの時代に培われた強烈な作家性

奥山:ロイ・アンダーソンの作ったコマーシャルも見ましたけど、どれも一般的なCMのロジックではない作りをしていながら、カンヌで8回もグランプリを獲っている。『ギリアップ』で大失敗した後、CMで再起をかけるって尊敬するしあこがれます。

コマーシャルのロジックで言うと、「この汚れが落ちない!どうしよう?そんな時はこの洗剤!」みたいなのが王道の流れだとしたら、彼のCMって「落ちない!落ちない!」ってやり続けて、最後にポンッと洗剤のロゴだけ出てきたりする(笑)。映像自体は、もはや『散歩する惑星』のワンシーンにしか見えないんですよね。

ちょっとずつ自分の作家性、空気感をコマーシャルで積み上げていったのを感じるんです。僕も広告の会社に勤めながら映画を作っているので、広告業界の隅にいる身として素敵だなと感じます。映画監督としての作家性をコマーシャルで作り上げたんだなと。

斎藤:僕から見る奥山さんも、まさに長編映画にこだわりすぎず、いろんな表現をしながら時折、長編を作るという形で、世界への切符を手にしていくんじゃないかなと思っています。そういう部分も含めて、ロイ・アンダーソンが示した道筋に影響を受けてますか?

奥山:自分が目指す道は一つの可能性があるのかもって、彼の存在によって背中を押された気がします。CMにおいては、彼のような強い作家性を感じるモノは稀です。言うまでもなく広告って、作家のモノではなく企業のモノなので。ただ、最近は広告が出ないことが一番の魅力としてアピールされているサブスクが登場するくらい、露骨に広告が嫌われてきていて。だからこそ、これからはただ宣伝するだけでなく、映像としてお金を払う価値があるモノをより強く目指して広告を作り始めるようになるんじゃないかなと。そうなったときには、ロイ・アンダーソンのように作家としての語り口を広告の人間が手にしていたら強いだろうと思うし、僕も作りたい映画はたくさんあるけど、ロイ・アンダーソンみたいなCMを作りたいというのも夢のひとつに加わりましたね。

斎藤:岩井俊二監督の『花とアリス』はキットカットのおまけ映像が発展して映画になったし、『四月物語』も松たか子さんの歌のMVを撮影して、岩井監督が書いたプロットがこれは映画になるんじゃないかってことで作品になったんですよね。

自粛期間中に岩井さんが作った、『8日で死んだ怪獣の12日の物語』という作品も、実験的ですけど、2人きりでYouTube展開で、直接会わずに作るところが始まりだったんですけど、それが全部つながって劇場という場までに進化していく――それは岩井さんがすごくシネマティックな脳をされているからこそできたと思うんですが、ロイ・アンダーソンのCMを見ると、その全てでロイ・アンダーソン作品を見たという満足感があって、様式は違えども、作家性が色濃く出ているんですよね。今後、奥山さんが作るものは必ずしも監督という立場じゃないかもしれないし、それは映画とは限らないかもしれないけど、奥山さんのDNAが入っていれば、そこから展開して長編映画に進化する可能性も大いにあるんじゃないかと思います。

奥山:展開しがいのあるものを作れるように頑張ります!




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「Studio 24」にて。(左)ロイ・アンダーソン監督と奥山監督。







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斎藤 工

さいとう・たくみ/1981年生まれ、東京都出身。近年の出演作に『MANRIKI』(企画、プロデュース、主演/19年)、『8日で死んだ怪獣の12日の物語』『糸』『孤独な19時』(20年)他。公開待機作は『シン・ウルトラマン』(21年)。齊藤 工名義でFILMMAKERとしても活躍。




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奥山大史

おくやま・ひろし/1996年生まれ、東京都出身。学生時代に監督した『僕はイエス様が嫌い』(18年)が海外映画祭で高く評価され、国内シネコンでも上映された。現在は広告会社に勤めながら、映画を制作している。




【速報!】
映画祭で上映する「ロイ・アンダーソン監督特集」の中から、日本初上映の『ギリアップ』と「短編プログラム」のオンライン配信が決定!詳しくは、9/7(月)に発表します。