間もなく発表。PFFアワード2016入選作品

 3か月のご無沙汰となってしまいました。その間にちゃくちゃくと第38回PFF東京開催までのカウントダウンはすすみ、いよいよ本日正午には、コンペティション部門「PFFアワード2016」のラインナップを発表します。

 自主映画のためのコンペティション「PFFアワード」作品をご覧になったことのない方は少なくないと想像しますが、もし"今の日本"を知りたいなら、必見です、このプログラム。PFFアワードは自主映画を対象にしていますから、作品は生々しく、正直です。
 そもそも、創作物は、隠しても隠し切れない創作者の生理を映し出してしまうもの。映画に於いて、このことを実感するのは、自主映画です。
 そして季節はまさに選挙。いつも思うのは「政治家たるもの、自主映画を見よ!」です。いや、そもそも、「映画を見よ!」です。それにつけても、公約に文化芸術推進を挙げる人物のいないこと・・・・しみじみと、文化芸術が票にならないとばっさりと判断されている社会を実感です。要するに組織票の見込める世界ではないってことですね・・・かもね・・・・そんなことを考えながらふと街を歩くと、いつのまにか進む古い商店街や住宅地の再開発という名の高層ビルへの統合。新たな道路の開通。どう考えても50年、あるいはどんなに近くても10年くらい前の計画の実施では?と首をかしげたくなる現実離れした開発の数々。「先輩のメンツを守ることと、ある種の業界の利益を守ること、それこそが組織の命題」みたいな、『64?-ロクヨン-』(テレビも映画も傑作ですね!原作が読みたくなりました)みたいな日本社会を改めて実感ですが、そこ、もう無理だろ~、限界だろ~、現実に目を閉じるのはこれ以上~!と思うなかで自主映画をみていると、飛び込んでくる、未来への希望を感じる映画たち。"思考停止していては生まれない創作物"に未来を賭ける喜びが、映画祭という仕事かもしれないと思うときです。
 と書きながら、よく質問されることを思い出していました。映画祭ディレクターの仕事って何ですか、と。映画祭といえば、プログラミング、PFFの場合は、加えて映画プロデュース、を想像されるようですが、その質問への答えを考えてみると、普通の管理職仕事のようなものかもしれないです。「目標や理想に向かって、仕事を構築し、進行管理をする」のですから。どんな作品を上映するのか、どんな人をプロデュースするのか、は、PFFの大切な基本ではあれ、一部です。先日は、「いつもどんな仕事をしているんですか」という質問に対して、ちょっと頭が止まってしまい、つい「スタッフにあれこれ指示すること」とか答えてしまいました・・・・とほほ。

 それはともかく、本年のPFFのテーマは、敢て「PUNK」です。先日発表しました招待作品部門のプログラム「8ミリ・マッドネス」の副題にもある言葉ですが、PUNKは自主の永遠のスピリッツではないかと改めて2016年、言葉にして置いてみるのです。

 そして本日の「PFFアワード2016」のラインナップ発表に引き続き、招待作品部門も随時発表して参ります。まさに、映画祭準備佳境!としか言いようのない7月。同時に、京都ではインターンシップのもと、PFFの京都開催を大学生が中心となってすすめるPFFプロジェクトが発進しました。神戸開催と合同の招待作品企画も構築予定です。
 また、中国で実現する「8ミリ・マッドネス」プログラム上映にあわせ、First Film Festivalというインディペンデントの映画祭に初めて参加します。この映画祭のコンペティション部門(今年の審査委員長はウォン・カーワイ監督だそうです)には、中国初となるPFFアワード作品の参加が決定しました。『いさなとり』です。実は『いさなとり』は、本年、台北映画祭、香港映画祭でも上映されており、中国語圏での人気を改めて実感です。また、中国に飛ぶ前には、14年ぶりのNY滞在があります。JAPAN SOCIETYの主催するJAPAN CUTS10周年を記念してのシンポジウムに参加です。同時に、『あるみち』の上映が行われます。

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中国のFirst Film Festivalで上映される『いさなとり』(左)と、NYのJAPAN CUTSで上映される『あるみち』(右)

 前回のNY滞在は911の翌年、2002年のトロント映画祭参加帰途。驚くほど静かだった記憶があります。実は911当日にはトロントにいて帰国できなかった私。翌年のNY滞在は、その後のあの街を感じたかったからです。が、それ以来、トロントにもNYにも行っていません。この14年間、欧米からの中東への攻撃が激化し、テロの様相が刻々と変わったことを、今、しみじみ"歴史"として考えてしまいました。なんといいますか、テロをなくすには、原因をなくすこと、それは、いじめをなくすには、大人がいじめ社会をやめること、ということと同義のような気がしています。

 とりとめがなくなって参りましたので、そのついでに、最近びっくりした本を紹介させてください。まず、ぴあが出している書籍なので、宣伝のようで気がひけますが「ありのままの私」富永歩。帯にある「男性のフリはやめました。」という言葉に興味をもち、事務局のデスクにあったのをいいことに読み始めたら、さまざまな疑問が氷解し、すっきりしました。特に、性同一性障害についての解説。専門書を読んでも「ほんとかなあ・・」と感じていたことが明快にされて爽快なこと。その後、この著者の著作を少しずつ読んでいますが、爽快。そして、石井妙子さんの一連の著作。岸富美子さんを取材した「満映とわたし」で初めて手に取った石井さんの著書ですが、あまりの面白さに、名著と呼ばれる「おそめ―伝説の銀座マダム」(こちらは、この本の主人公、おそめのマダムのパートナーであった俊藤浩滋プロデューサーを山根貞男さんが取材なさった「任侠映画伝」を一緒に読むと尚楽しいです)、「日本の血脈」そして、最新刊「原節子の真実」と一気読みして、爽快。今は、関川夏央さんの「人間晩年図巻」を読み終わらないようにゆっくり読むのが難しい。あら?本が映画祭準備のストレスからの逃避だな、今、と実感しました。

 で、ストレスの一番は「交渉」です。交渉しても交渉してもうまくいかないことが続くのが、仕事の宿命。最近では、仕事柄の一番のストレスは「交渉」以前に「交渉先がみつからないこと」かもしれない。映画の。製作した会社が消えている、その後の権利保持者がみつからない。あまり珍しい話ではなくなっています。
 そんなとき、映画監督に権利があれば・・・と思うのです。理想的には、監督が自らの製作会社を持ち、自らの映画をつくることですが、依頼された映画でも、例えば、私の仕事柄の発想ですが、「10年後からは映画祭出品や本人のレトロスペクティブは監督の意志でOK」といった特例を契約上に設け、作品のコピーをひとつ持つ。現在であれば、データ管理ですが、過去ならプリントを一本でしょうか。
 公開から年月を経ても上映の機会が生じるのは、映画祭であったり、何かのイベントである可能性が高い。そのとき、監督が作品を持っていたら、どんなにかプログラムの幅が広がるだろうかと夢想します。特に現在、映画をデータで管理するということは、常に最新のフォーマットに移し替えていくという作業が必要だと盛んに言われています。ハードディスクの中身が消える恐怖が普通に語られています。そのデータ変換作業を延々続けることができるのは、誰でしょうか?
 映画をつくることよりも、保管する、保存すること、そして時を経ても上映できることが、ますます大きな課題になっていることを感じる、映画祭準備の季節です。