国際映画祭の使い方 その③カンヌ出品、そして国際市場へ

カンヌのラインナップが発表されましたね。
遅ればせながら、以前からお知らせしていたカンヌ編をやっと書き上げたのですが、今、気持ちは熊本の地震で引き裂かれています。
月末からの福岡開催を控えた私たちです。揺れは九州全域に渡る大きさ。熊本はじめ九州各地の皆さまの被災と被害へのお見舞いを心より申し上げます。また、不測の最後を迎えられたかたがたのご冥福を深くお祈り致します。
もう、いつ、どこでどんな地震が起きるのやら、全く油断ならない日本。
復興予算は、これから益々必要となってくる中、災害を拡大させない最初の一歩である原発停止を何故すぐ実行しないのか、私にはわかりません。危険を回避する原始的な本能のアンテナが機能していないとしか思えない・・・
だが、人間本来の感覚を覚醒させる道具として、映画や創作物はたぶん有効。改めてそのことを考えています。

カンヌの話に戻ります。
映画祭のことを話すとき、カンヌ映画祭のことなしには始まらない空気、ありますね。
ほぼ映画のステイタスと同義語にも使われることのある「カンヌ」とは、そもそもどんな映画祭なのか?誰が、何のために運営しているのか?
かくいう私は、実のところ、まだ大きな名声を得ていない頃のミヒャエル・ハネケ作品をみたくて参加していたようなもの。ハネケが巨匠となった現在は、PFF準備の佳境でもあり、出かけることを考えもしない昨今・・・
また、作品の出品者としては、PFF作品は夏を皮切りにどんどん海外へ紹介していくので時期的にずれてしまい、『運命じゃない人』出品以来ご無沙汰しております・・・素敵な南仏の風、独特の狂騒と華やぎ、思い出すと豊かな気持ちになるカンヌ体験ですが、ちょっと昔の出来事に・・・

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2005年、PFFスカラシップ作品の『運命じゃない人』(内田けんじ監督)が
カンヌ映画祭批評家週間で4賞を受賞
そんなこんなで、カンヌのことは毎年通っておられる「カンヌ通」に伺わねば!と、今回は、かれこれ30年間カンヌに通っておられる批評家の齋藤敦子さんと、1950年代からカンヌでは、東和映画(現・東宝東和)の大きなパーティーを通じて日本映画の海外普及に尽力されていた故・川喜多長政・かしこご夫妻の"日本映画の国際交流"の遺志を繋ぎ、現在も日本映画の海外への紹介活動を続ける川喜多記念映画文化財団から、坂野ゆかさんにお時間をいただき、おふたりへの取材を通して、私自身、再度考察してみました。

1946年に始まったカンヌ映画祭の公式部門=映画祭本体が運営する部門は、スタート時からあるコンペティションと、1978年に始まったある視点。そして、21世紀により活発になった、短編コンペティションと、シネフォンダシオン=学生映画部門です。

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シネフォンダシオンに出品された、
PFFアワード2014グランプリ作品『ナイアガラ』(早川千絵監督)

公式部門の資金源のメインとなるのは、フランス政府からの助成金。そもそも、映画文化を「第7芸術」として世界最高に大切にするフランス政府が、ファシズムが台頭するイタリアのヴェネチア映画祭に対抗しようと計画した、フランス映画のために始めた映画祭ですから。

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(左から)「コンペティション」「ある視点」「短編コンペティション」「シネフォンダシオン」の各ロゴ

「1960年代まで、カンヌは静かでゆったりした、映画人の交流の場所だった」と以前大島渚監督に伺ったことがあります。かつての様子を、坂野さんが川喜多映画文化財団に保管された資料から、探してくださいました。
川喜多かしこさんの新聞寄稿(1957年/昭和32年)によると
「カンヌはますます国際見本市としての位置を固めてきた。コンクールに参加するのは各 国一本ずつの自薦のほかに、米英仏伊日スペインなどの主要映画産業国に対する招待映画があり、今年は総数31本。その他カンヌ市にある数館の映画館での商業用あるいは宣伝用試写が1日に平均3,4本行われる。16日間の会期中に私の観た数は50本」。

ふむふむ、多分、16日間で上映される作品数は、今で言うマーケット上映を入れても80作品に満たなかったのではないかと想像します。公式部門では、31作品のみ。およそ1日2作品上映ですね。また、出品方法も、かつてと現在は随分と違っています。上記の原稿にあるように、1971年までは各国の映画機関(日本の場合、映連)から推薦される作品が上映となり、72年以降は映画祭側が主体となって選考する方法に変わり、現在はインターネットで誰でも自由に応募できるようになりました。同時に、カンヌ映画祭のプログラマーたちが作品を観て、これはと思った作品を推薦もしています。(が、あくまでも推薦。決定ではありません。とはいえ頑張ってプッシュしてくれることが多いです。と坂野さんより)

さて、カンヌの公式部門の責任者を長く勤めていた、カンヌの顔だったのがジル・ジャコブ氏。よく聞こえた名前だと思います。
カンヌのディレクター達に詳しい齋藤敦子さんに伺いました
ジル・ジャコブは1978年にディレクターに就任して以後、2014年に引退するまで、映画祭のトップとして、スターと名士の社交場だったカンヌを、世界の映画産業の中心に成長させた功労者。78年に、ある視点部門と、新人監督賞にあたる「カメラ・ドール」を創設。98年には映画学生を対象としたシネフォンダシオン部門を創設するなど、今あるカンヌの形は、ほとんどジル・ジャコブの手になる。
うーむ。やはり映画祭ディレクターで決まる映画祭ですかね・・・ドキーン!!
そして、カンヌ映画祭成功の秘訣は、芸術と産業のバランス感覚にあるのかも????

今回、カンヌの逸話をたっぷり伺ったあとに香港国際映画祭に参加したこともあり、この20日ほどは、改めて映画と映画祭のことをあれこれ考えるいい機会となりました。
2016年の現在に、それはとても想像するのが難しいことなのですが、テレビが一般的に普及したのは1950年代後半。それまで「映像は映画館でみるもの」だったのです。「大勢で大きなスクリーンでみるもの」だったのです。
そして、映画祭は、そのようなものとしての「映画」というものを、文化として、芸術として大切にしている場所なのです。そのようなものとしてあることによる、他では代われない力を信じている場所なのです。
そして、「映画」をつくること、みること、みせること、を南仏の潮風にあたりながら、業界人がゆっくり語り合う、国際的な社交場。が、始まった頃のカンヌだったのです。その後、映画祭で上映する作品がすぐに遠くない場所で売り買いされている状況=マーケットに力を入れる(1959年スタート)ことで、あらゆる映画業界が集う場所へと変わっていきましたが、そもそもは、「社交界」。その名残は、「チケット販売がない」というスタイルで、現在も残っています。
齋藤さんに詳しく伺いました。
カンヌは、ベルリンやヴェネツィアなどと違ってチケットを売らない、一般観客を入れない映画祭です。つまりカンヌで映画を見るためには前もって映画祭に登録し、バッジをもらう必要がある。バッジにはプレス用、業者用、映画祭関係者用、出品作の関係者用などの種類があり、それぞれ登録方法が違い、見られる映画も違う。例えばプレスバッジはプレス用の上映には入れるが、マーケット上映には入れないし、業者バッジはマーケット上映には自由に入れるが、主会場でのコンペティション作品の上映には前もってバッジホルダーのためのチケットを手に入れなければならない、というように。また、バッジがないと映画祭の会場に入ることもできない。
ここで言うバッジとは、パスという言葉も使われます。首からぶら下げるプラスチックのカードですね。有料のバッジと、無料のバッジがあります。そのバッジの効力が細分化もされています。
*私の記憶では、会場によっては、チケットだけ(バッジなし)で入場している地元の方々がいます。コンペティション上映でのドレスアップした方々は、近隣の名士やスポンサー関係であったりします。彼らもチケットは購入ではなく、映画祭からの招待です。

公式部門以外では、公式コンペティションへの反抗から1969年に始まった監督週間。フランス監督協会が発足させました。そして、批評家週間。批評の高度に発達した国フランスの批評家連盟が1962年に発足させました。
カンヌの「部門」について、斎藤さんに整理していただきます。
現在カンヌのオフィシャル(公式/正式)部門は、コンペティション、ある視点、シネフォンダシオン、短編コンペティションの4つ。監督週間と批評家週間の2部門は別組織が運営しているため、公式な部門とは言えない。したがって、「監督週間」と「批評家週間」に出品された作品の宣伝素材に棕櫚のマークを使ったり、公式/正式出品作と呼んだりするのは実は間違い。
なるほど。監督週間、批評家週間とも、独自のプログラミングを行っている訳です。
一方、カンヌ出品作品の中から長編第一作を対象にしたコンペティション、つまり「新人賞」の「カメラドール」は、公式部門だけでなく、監督週間、批評家週間の上映作品も対象になります。そして、面白いことに、公式部門も、監督週間も批評家週間も、賞がどんどん増えている。これは、世界的傾向でもあります。スポンサーが増えるたびに賞が増えるという現象です。そのうえ、カンヌはスポンサー集まりやすい・・・

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(左から)「監督週間」「批評家週間」のロゴ

さて、作品の出品についてです。
先述のように、カンヌへのエントリーは、現在誰でも出来ます。英語字幕をつけた作品を用意しておけばOKです。*公式部門のコンペティションとある視点は、応募作品を映画祭でふり分けしますが、他は希望のところに応募することになります。
ここで、映画祭に応募する際に、一番問題になる英語字幕についてお伝えしたいことがあります。
英語字幕のクオリティは、作品の行方に大きな影響を及ぼします。そこは、ものすごく意識的になったほうがいい。坂野さんも、「英語の出来る友人に頼んでみました」というレベルの英語字幕について懸念しておられました。
字幕は決められた文字数で会話の翻訳をするという、高度なテクニックの必要な作業です。同時に、言葉のセンス、作品の読み込み力と教養の求められる仕事です。海外で評価の高い映画の英語字幕を誰がつくっているか研究して依頼する、くらいのことをしても、その価値のある仕事です。息のあう字幕翻訳者をみつけて、その人とずっと組んでいる監督や製作者は珍しくありません。つまり、字幕は非常に重要です。映画をつくることと同等に考えておいたほうがいいとおもいます。
そして、めでたく上映が決まれば、フランス語字幕を作成し、通訳を用意し、宿泊や渡航を用意です。
参加者が作品の展開に意識的であることを前提にしているカンヌです。"映画祭が何もかもケアしてくれる、若いインディペンデント映画監督に手厚い映画祭"という場所ではないので、ご自身でしっかり準備してください。

あ!今私は、若いインディペンデント映画監督=同時に製作者でもある=という方々に向けて、この文章を書いているのだなと改めて確認しました。ここで、PFFという映画祭を運営する立場から、改めてお伝えします。
基本的に、大きな可能性を秘めた新人の発掘に必死なのが「映画祭」の特徴です。「圧倒されたい!見知らぬ映画作家に」という熱意をもって始まり、その熱意を脈々と継続しているのが「映画祭」というものです。
ではその気持ちでみている映画祭の目にとまる映画とは何か?
そこを製作者は考える必要があるでしょう。
そのために何をするか?多くの映画をみる、自分にしかつくれない、つくりたい映画をがっちり掴む、というのは大前提ですが、現在はもう一つの課題が浮上しつつあるでしょう。
大スクリーンで、大勢の人間がみることを前提の映画をつくる」という想像力と、画と音と美術などの技術に対する高い意識。(余談ですが、日本映画は音が弱いと言われ続けています)この感覚を手に入れることが困難な時代になってきました。が、カンヌは、映画祭は、そういう映画が競い合う場所です。そして、そういう映画を、毎日毎日世界の映画媒体が競って批評を掲載する。カンヌは批評の量が圧倒的に多い。つまり、話題になれば、世界への報道が一瞬にして行われる場所でもある訳です。その力によって、一夜明けるとスター監督、という現象が起きることがあります。

と書いてきて、ふと思ったのですが、映画祭出品は、映画製作の「目標」ではないですよね?
そもそも自分のやりたいことは何か、その作品を最初に見つけてくれる場所はどこか、そこから始まるチャンスをどう使っていくか、を考えて、映画祭を研究し、使っていくことを考えるのが、製作者です。「自分のつくりたい映画に、一番いい映画祭」という視点で選んでいけば、もしかしたら、カンヌではないのかもしれない、という発見もあるかもしれませんね。

現代は、デジタル機器の発達によって、ひとりでも映画がつくれる環境が生まれています。かつては夢でしかなった技術や制作環境、そしてコストダウンの可能性も生まれています。同時に、かつての映画大国の地図が完全に塗り替え始められました。
35mmフィルムで、巨大なスタジオが並ぶ映画会社で、映画が量産されていた1950年代まで、日本は、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、スヴェーデン、ロシアと並ぶ映画大国でした。ですが、日本国内の需要だけで十二分に成り立つ産業だったこともあり、海外とのコミュニケーションのあまりない世界。そもそも、「映画祭」の存在すら知らない状況であった日本の意識を、変えていこうとしたのが、故・川喜多かしこ&和子親子の活動でした。映画は「興業」だけではない。国境を簡単に超えることができる「創作物」だ、という価値観の世界の紹介を通してです。
1990年代には、映画産業の衰退に伴い、自分の映画を発見してくれる場所を求めて、映画祭での上映を積極的に行う世代が登場します。PFFも、インディペンデント映画を、新人を愛する場所へと運んでいくことに力を入れてきました。同時に、今村昌平、大島渚、小津安二郎、黒澤明、溝口健二、らスタジオ時代からの巨匠たちの名前があがるばかりだった海外で、日本映画の再発見が始まり、新たな日本映画ブームが巻き起こりました。岩井俊二、河_直美、北野武、黒沢清、是枝裕和、塚本晋也、三池崇史などの名前が頻繁に登場します。(監督名50音順)

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2015年、黒沢清監督『岸辺の旅』が
カンヌ映画祭「ある視点」部門で日本人初の監督賞を受賞
そして今、2016年。新たな映画地図で「日本の名前は小さい」というのが現実です。
東欧、中東、南米、東南アジアなど、かつては映画の殆どなかった国々から、続々と刺激的な作品が生まれ、映画祭を賑わしています。映画産業では、間もなく、中国が国内需要だけで世界一の売り上げを上げると予想されています。
かつて、インディペンデントの映画は映画祭でしか上映の可能性がなかった中国ですが、現在では、検閲を通して自国、中国人に映画を見てほしいと中国の監督は切実に考えています。映画人口の爆発的な増加が、状況を変えたのです。そして、これから更に必要とされる商業映画製作本数に対し、技術者不足の中国では、映画人を切実に求めています。香港、台湾の映画人がいち早く大陸で仕事を始めていますが、同時期に、スタッフとして、キャストとして中国大陸と共同制作を始めたのが、韓国です。先日、香港で参加した会食には、中国大陸で香港の制作会社が制作する映画で、3か月中国語の特訓を受け、中国人の役で出演した韓国人俳優やプロデューサーも一緒でした。

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2013年、『罪の手ざわり』で
中国のジャ・ジャンクー監督がカンヌ映画祭脚本賞を受賞

英語字幕つき作品の非流通、上映素材製作費の高額さ、なども含め、ある種"鎖国状態"な部分の多い日本の映画は、産業として、映画祭という場所、どちらでも、その存在が更に小さくなって行く危険を孕んでいます。
だからこそ、新たな冒険が沢山待っているのです。世界の常識=日本の非常識をどんどん覆せる日本映画、なのです。
これからは、かつてないほど新たな映画地図が描けるのです。ひとりでも映画ができる時代であり、かつ、世界と繋がるのが簡単な時代、まだまだ活力溢れる場所が生まれ続けている、こんなに可能性に満ちた映画の世界です。どんどん挑戦してみましょう。
映画祭参加は、新しい挑戦への、とてもとても見えやすい入り口です。是非その門を潜ってみましょう。理解者は、協力者は、世界中にいます。