橋本文雄さんの冥福を祈りながらヒカリエを探訪する
9月は、クレイジーキャッツ映画と、大映映画、特に、三隅&森両巨匠のちょっとした再ブームが個人的にきていたので、PFFの会期中も夜中にみたりしていました。
更に、何十年ぶりかの『大菩薩峠』シリーズ見比べ熱も盛り上がり、「休みを使ってやることだわ~」と頭ではわかっていながら、会期中も続けていたり、我ながら「新しい映画と古い映画、同時にみないとバランスのとれない体か?」と思っちゃいました。
・・・病気ですかね。
そんなこんなで、しみじみ、日活、大映、東宝、松竹が映画製作をしていた1960年代までの、いわゆる「活動屋の時代」作品を絶えずみてるかも・・・と認識したのですが、その"活動"のつくり手が、またおひとり、この世を去られてしまい、残念です。録音の橋本文雄さん。
橋本さんのインタビュー集『ええ音やないか』を残してくださった、上野昴志さんとリトル・モア、ありがとう!と心で叫びながら、未体験の渋谷ヒカリエを抜けようとしたはずが、つい、もくもくと、歩いてしまいました。
ああ、おしゃれな店がいっぱい。
外国人の感動するという地下のお菓子売り場も納得。
ヒカリエを通る前は、池谷薫監督の新作『先祖になる』の試写に伺っていました。今回は、陸前高田にお住まいの佐藤さんの記録です。前作、『蟻の兵隊』に続き「信念ある老人」の姿をみせられると同時に「日常が非日常になる」ということはどういうことか、が、そくそくと迫ります。
試写会場を出ると、オバマの大統領戦当選確実!という速報が飛び込み、これから暫く、「日米関係どうなるか?」一色の報道になるであろう日本のマスコミを予想しました。
映画祭世界はアメリカと縁が薄いこともあり、「アメリカとどうなるか、より、"日本と世界の関係"はどうなるか?とか、"日本の国内問題"はどうなるか?を考えるほうが、これから役に立つのではないのかな~」というのが、私の実感です。
いや「これから」のことを具体的に構築する"生きる技術"を、どう認識し、どう使うかが、目の前の私たちの課題だなあ~と思うのです。
さまざまな「技術」の伝承。
そのなかで、映画の具体的な技術に関しては、映画祭も積極的に取り組むべき課題に、21世紀はなっていくのか、あるいは、学校に大きくシフトされていくのか、それも考えろと迫られている感があります。
ところで、前回、釜山国際映画祭の紹介をしていて、「大きい映画祭は、大きい国際空港に似ているかも?」と、気になり始めました。
デザインや、機能がどこも似ている。
言語や、集う人々がどこも似ている。
そもそも「大きい組織」は、すべて似ていかざるを得ない構造を持つのかもしれません。
一方、小さい映画祭は、他にない何かを持ち続けることが
これからの課題=映画祭の生き抜く技術=なのかもしれません。
ところで、先週から始まっているのが、「ひとりでカトリーヌ・ドヌーブ特集」
最前線を走り続ける生涯主演女優へ、観ることでオマージュを捧げ始めております。