PFFもボランティアの募集を始める気持ちです
東京国際映画祭期間はびっしりと他の仕事に覆われ、全く作品を観ることが出来ず、ほんとにかなしかったため、少しゆとりの生じた東京Filmexは出来るだけ参加しようとしています。久しぶりの映画祭参加に、ちょっと緊張したりして・・
今回初めて開会式から参加しました。初日だけ東京国際フォーラムで開催する!その仕込みと撤収の大変さを想像して眩暈がしたり、藤岡朝子さんの通訳に改めて感動したり、ボランティアの活躍に感心したりして、「PFFも"ボランティア無し体制"を変える必要があるなあ」と、しみじみ感じました。時代は変る。これまで"責任"の意味でボランティアは登用せず、スタッフを雇うことを続けてきたPFFですが、来年の開催は、ボランティア募集できるよう準備します。
実は私、東京Filmex第一回の審査員だったのですが、そのとき、アピチャッポン・ウィーラセタクン作品と、ロウ・イエ作品の競り合いとなり、『ふたりの人魚』がグランプリとなりました。今回オープニングの『ブンミおじさんの森』をみながら、両監督とも活躍していてよかったな~と感慨深いのでした。が、しかし、それ以来コンペ作品を全てみることの出来た年のないだめな私。折角日本で、日本語字幕つきでその年の話題作見ることができるチャンスである「映画祭」を、もっと自分に生かさなくてはです。
そして、『ブンミおじさんの森』に加え、ジャ・ジャンクー監督の『海上伝奇』、『鉄西区』のワン・ビン監督の初フィクション映画『溝』と、3作品の製作クレジットの思いっきり重なっていることに、改めてしみじみと欧州の映画製作援助の重要性とにその対象外の日本を再認識しました。日本のプロデューサーの資金獲得の困難さを、折々に痛感させられます。
また、今日まで拝見した作品は、「皆、自分の道を行くのだ!」と繰り返し告げられる作品群でした。同時に、各作品には、いかにして各人が切り取ると決めた瞬間を残すかの創意工夫があふれています。そうして、世界の映画監督たちが挑む挑戦は、非常に近しいということにも気付かされます。「集中的に映画をみる」ことの意義を再認識すると共に、映画祭の存在理由の数々を改めて考えます。
ところで、最近「日本再鎖国はどうか?」と耳にすることが多くなった気がします。ほんとに鎖国したら、現状では飢餓が起きますね。一部の特権者たちを除くと、生活は激変でしょうが、どうも多くは現状維持が可能という夢想に成り立っているのではと思わされます。ワン・ビン監督の『溝』は、飢餓、抑圧、思想や言論の統制、などを具体的に描き、言論、思想、表現、信教などの自由が保障される生活を送れる我が身の幸運を感じさせます。
というわけで、東京では、幸運にも、大小問わず絶えず映画のイベントが展開されています。
本日知人から送られてきたこの情報は、墨田区でのイベントです。
廃校を会場に、映画と音楽とで構成されるようです。
http://pia-eigaseikatsu.jp/news/0/41374/
一方で、観たい映画をそう簡単に観ることができない土地があります。
しかし、各地で積極的に映画上映を実現しようと活動している人たちがいます。
例えば本日(過去に北九州でPFFを開催していたことがあるご縁から)2週間後に北九州で、イ・チャンドン監督と青山真治監督の対談もある映画祭が開催されるお知らせをいただきました。
http://kitaqcinema.jugem.jp/
ここで日本で東京Filmexに次ぎ2番目となるイ・チャンドン監督の新作『詩』の上映もあります。告知時期が遅れたため、非常に苦労している様子です。是非多くの人に伝えていただければ、そして参加していただければと思います。
また長くなってしまいました。
最近の映画以外の驚きは、やっと読んだ『鞍馬天狗』が倉田典膳というアナキストの物語で、革命以後の社会構築の難しさを描いた物語であることを知ったことと、世界のベストセラーになった『肥満と飢餓―世界フード・ビジネスの不幸のシステム―』に描かれた状況の多くは、既にかなり早くに映画に描かれていることを知ったことです。
21世紀に次々と表出するおそろしいことは、ほぼ全て20世紀には気付かれていたのだなと改めて思いました。(紀元前に既に気付かれていたことも多いでしょうが・・・)また、前世紀のSF小説も現実を先取りしていて、怖かったなと。例えば映画になった『ソイレント・グリーン』(1973年)は、間近なのかも・・・と、ちょっとぞっとしたりするのでした。
そして木曜日からは名古屋でPFFが始まります。
是非ご来場ください。PFFアワード2010監督大集合で今年最後の上映を飾ります!