橋口亮輔監督×鈴木敏夫プロデューサー「映画にとって、新しい表現とは何か?この壮大で永遠の課題に、答えは出るか?」(vol.2)

インタビュー

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過剰な描写をしない

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『恋人たち』

© 松竹ブロードキャスティング/アーク・フィルムズ

橋口:新しさとは違うかもしれませんが、『ウィークエンド』や『さざなみ』、それと僕の『恋人たち』もそうなんですが、過剰な表現をあまりしていませんよね。『恋人たち』を公開したとき、その表層だけを観て批判した人たちがいたんです。そういう人たちは内容が全く分かっていない。この作品には素人が出ていて、3つのストーリーが交互に絡んでいくんですが、素人が演じてストーリーが絡んでいくだけで理解不能になっているのにはびっくりしました。これがロバート・アルトマン監督の群像劇などだと、出ている俳優が全部わからなくても理解できるじゃないですか。それが全く理解できないというのは、いかに今、受け取り手がステレオタイプにしか映画を観ていないかということだと思うんです。例えば音楽でも、ここは泣くところという音楽を入れて、役柄もこの人は主役、この人はサブキャラクターを決め込んで作られた、表層だけで見せていくものが多い気がします。

鈴木:説明過多ということですよね。僕らが『思い出のマーニー』という映画をやるときにね。あれはシナリオの決定稿を決めたところで僕の仕事は終えて、あとは若いプロデューサーと監督に任せたんです。それで放っておいたら、ある時「決定稿が上がりました」とシナリオを持ってきたんですよ。この本が、僕らが最初に決めたシナリオの3倍くらいの分量があったんです。ありとあらゆることを説明している本で、僕は愕然としました。心の声までちゃんとセリフにしてしゃべっている。「何でこういうことにしたの」と聞いたら、「最初の本は、原作から離れているから」というんですが、それは嘘だと思った。最初の本の方が明らかに原作に近い。だから「君たちのやったことは、原作の傍に寄って行くことによって、遠く離れてしまったよ」と言わざるを得なかったんです。それでますます映画の作り方を考えるようになったんですけれど、僕はドナルド・リチーさんが書いた『映画のどこをどう読むか 映画理解学入門』という本の影響を受けているんです。そこには映画には2種類しかないと書いている。1つはスピルバーグのようにすべてを見せてくれる映画。もう1つは、スクリーンに映し出されるものだけでは全てを与えてくれないから、それを補完するために自分が考えなくてはいけない。考えることによってあるシーンが成立する映画だと。リチーさんはその例として小津安二郎の映画を上げています。そのどちらも面白いんじゃないかと言っているんですけれど、説明過多というのはあり得ないと思うんですね。でも日本映画の新しい作品は説明がものすごく多い。観ていて、うんざりするんです。僕なんか、「もう少し楽しませてよ」って思っちゃう。