塚本晋也監督×橋口亮輔監督「つくりたい映画を追求する力、それが自主映画」(vol.1)
朝日新聞紙面に掲載された第37回PFF特別企画、塚本晋也監督×橋口亮輔監督×PFFディレクター荒木啓子による鼎談「つくりたい映画を追求する力、それが自主映画」。今回のPICK UPでは、スペースの都合上、紙面では掲載できなかったエピソードも含め、完全版でご紹介します。PFFアワード1988で『電柱小僧の冒険』がグランプリを獲得した塚本晋也監督と、『ヒュルル…1985』が入選し『夕辺の秘密』がグランプリを受賞した橋口亮輔監督が、今だから語る「映画づくり」とは?
映画づくりであきらめないこと
荒木D:橋口監督の新作『恋人たち』の現場に入った方が「橋口監督は絶対にあきらめないところがすごい」と驚いていて、私はその言葉に驚きました。自分の作品に対して、あきらめないのが監督だと思っているので。橋口監督と、『野火』という何十年もあたためた企画を自主映画の形で撮った塚本監督は、今最も崇高な映画作りをする監督だと感じます。映画の夢や理想を追求する場所でありたいPFFとして、自分が信じる映画をつくり続ける勇気について、お二人に語っていただきます。
橋口監督:今回、あるワンシーンがうまくいかず何時間もかけて延々とやっていたら、「あきらめないですよね。ほかの監督はこんなにやらない、すぐにオッケーを出しますよ」とスタッフに言われて、僕も驚きました。そんなことしたら映画にゆるみが出るじゃないですか。でも、塚本さんの『野火』はたいへんな力作で、観る前は、「戦争の話、人肉の話か、重いだろうな」と思っていたのですが、息つく暇もないほど素晴らしい作品でした。自分の作品は、『野火』のワンカットほどのエネルギーも使っていないと思いましたよ。
塚本監督:何をおっしゃいますか。いつもながらすごいエネルギーが発散されていました、『恋人たち』は。観たあと、すぐもう一度観たくなりました。
荒木D:『野火』は、何十年もつくりたいと思い続けた作品ですね。
塚本監督:最初は超大作にするつもりでした。自分の集大成的に、尊敬する主演俳優さんにお願いし、ずっと一緒にやってきたスタッフ全員を連れてフィリピンで撮影して、『地獄の黙示録』日本版みたいなものを考えていたんです。でも、とにかくお金が集まらなくて、だけど絶対に今つくらないといけないと思い、自分ひとりでカメラを持ってフィリピンに行き、自撮り撮影するしかない、とまで考えました。僕は、橋口監督のような俳優を追い込んで行くタイプではないですが、作品そのものをあきらめなかった感じですね。
橋口監督:塚本さんやめて下さい。追い込みませんから(笑)。
つねに手探りの映画づくり
橋口監督:塚本さん、今おいくつですか。
塚本監督:55です。
橋口監督:じゃあ2つ上ですね。
塚本監督:だいぶ時間がたちましたね、『電柱小僧』でぴあのグランプリをいただいてから。1988年、28歳のときでした。そのとき、こんな初々しい場所で28のおっさんが賞をもらって気恥ずかしい感じがありました。僕が最初にぴあに接したのは、その10年ぐらい前、10代の終りの頃で、池袋の文芸坐の地下で1日だけ開催されていたときです。石井聰亙監督(*注1)の『突撃!博多愚連隊』や森田芳光監督(*注2)の『ライブイン茅ヶ崎』、桂田真奈さん(*注3)の『アスファルトにねむる』などが上映されて、ほんとにトキメキ・ワールドでした。
荒木D:塚本監督がグランプリを受賞した頃は、ある程度の年齢になると自主映画をやめるかたが多かったのでしょうか。
塚本監督:僕はCFの会社にいながら勝手に映画をつくっていたので、映画の友人はいなかったんです。だから、誰がやめて誰が続けてというのは全然わかりませんでした。
荒木D:橋口監督は、『ヒュルル…1985』で86年に入選して、『夕辺の秘密』でグランプリを受賞したのは、塚本監督の翌年、89年ですね。その頃は映画づくりの仲間がたくさんいたのでしょうか。
橋口監督:入選仲間の鈴木卓爾(*注4)や成島出(*注5)、斎藤久志(*注6)らが東京にいましたから、僕が東京に来て『夕辺の秘密』を撮るときには手伝ってもらいました。機材を借りたりとか。
塚本監督:ああ、僕はそういう友人もいなかったです。『鉄男 TETSUO』(89年)の頃も、お芝居をしていた仲間と作りました。
橋口監督:特殊メイクとか、いろんな人脈がいっぱいあったのかと思っていました。
塚本監督:いやいや。最初は燃えないゴミの日に近所を回って材料を集めて、田口(トモロヲ)さんに両面テープで鉄屑を貼りつけていたんです。「鉄男II BODY HAMMER」のときに見るに見かねた若い子たちが手伝ってくれるようになりました。プロ志望の子たちも多くて、いまは大活躍しています。だから、初めてメジャー映画『ヒルコ/妖怪ハンター』(91年)を撮ることになったとき、スタッフの数の多さに驚きました。利重剛さん(*注7)に、どういう役割があってこんなに必要なのか、わざわざ事務所を訪ねて聞いたぐらいです(笑)。利重剛さんが初めての映画のお友達かな。
荒木D:馴染みのスタッフと初めてのスタッフ、どちらが楽とか、映画をつくる喜びに違いがあるとか、ありますか?
塚本監督:僕の場合、自分自身がいつも手探りなので、スタッフと一緒に「わかんないねー、どうしようかー」と言い合って考えていくのが楽しいです。『野火』で、トラックをどうしても登場させなくてはいけなかったんですが、お金がまったくなかった。どうしようってボランティアスタッフと話し合って、段ボールでつくることに。後半にでっかい護送車が出てきますが、あれ、段ボールでつくったんです。
橋口監督:え、段ボールですか? ぜんぜんわからなかったです。
塚本監督:僕も、近くで見ても本物にしか見えなかった(笑)。
橋口監督:そういえば、リリー(フランキー)さんから聞きました。泊まりのロケになって、壁が薄いものだから隣のスタッフたちの会話が聞こえてきたそうです。「やばい、血糊が足りない!」「じゃあコンビニに買いに行こう!」って(笑)。そういう素人のボランティアたちと一緒につくったわけですね。
塚本監督:僕のなかにルールがあって、最初はボランティアで入った人も2回目からはプロとして扱うことにしています。だから予算のない『野火』では、それまでのスタッフにお願いできなかった。みんな気にかけてくれていたんですが、ギャラを出せないので、ツイッターでボランティアスタッフを募りました。
*注1:石井聰亙 (いしい・そうご)
1957年生まれ。福岡県出身。8mm映画『高校大パニック』(77年)から熱狂的支持を集める。最新作は『ソレダケ/that's it』(15年)。2010年より石井岳龍として活動。
*注2:森田芳光 (もりた・よしみつ)
1950年生まれ。神奈川県出身。代表作に『家族ゲーム』(83年)など。2011年12月に急逝。『僕達急行 A列車で行こう』(11年)が遺作になった。
*注3:桂田真奈 (かつらだ・まな)
日本女子大映研8mm『アスファルトにねむる』(78)監督。学生自主映画界に女子風を入れる。その後ぴあに入社。PFFスカラシップ作品の製作にも参加。現在は映画ファンとして映画を満喫中。
*注4:鈴木卓爾 (すずき・たくじ)
1967年生まれ。静岡県出身。代表作に『ゲゲゲの女房』(10年)、『楽隊のうさぎ』(13年)など。最新作は、第37回PFFで上映する『ジョギング渡り鳥』(15年)。
*注5:成島 出 (なるしま・いずる)
1961年生まれ。山梨県出身。『油断大敵』(03年)で劇場監督デビュー。最新作に連続公開された『ソロモンの偽証 前編・事件』『ソロモンの偽証 後編・裁判』(15年)
*注6:齋藤久志 (さいとう・ひさし)
1959年生まれ。代表作に『フレンチドレッシング』(98年)、『いたいふたり』(02年)など。最新作は『なにもこわいことはない』(13年)。
*注7:利重 剛(りじゅう・ごう)
1962年生まれ。神奈川県出身。『BeRLiN(96年)で日本映画監督協会新人賞受賞。最新作は『さよならドビュッシー』(12年)。