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鈴木卓爾監督×諏訪敦彦監督「『ジョギング渡り鳥』の製作過程から考える映画のつくり方」

作品に映るすべての人が俳優でありスタッフであり、映画を構成するすべてを全員でわけあうという、過去から多くの映画人が試みようとしてきた「映画づくりの夢」を実現した作品『ジョギング渡り鳥』。第37回PFFの「映画内映画~映画は映画をつくることをどのように描いてきたか~」プログラムでは、本作を上映後、鈴木卓爾監督をお迎えし、諏訪敦彦監督を聞き手に、『ジョギング渡り鳥』と、その創り方、監督という存在の在り方など、映画製作についての多彩な対談を展開いただきました。まるで、ロバート・アルトマンの『ナッシュビル』であり『ウェディング』ではないかという例えも飛び出した『ジョギング渡り鳥』はどのようにつくられたのか?芳醇な映画の対話を、お楽しみください。

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むちゃくちゃなものをもっとむちゃくちゃに

諏訪:僕ね、最近「こども映画教室」っていうのをやってて、毎年一回。

卓爾:金沢で。

諏訪:小学校1年生から6年生まででチームつくって、3日間で映画作るんですよ。初めて会って、お話考えながら撮影して、編集して上映までやるんです。これがね、混沌としてて面白い。

卓爾:むちゃくちゃですよね。

諏訪:僕はね、むちゃくちゃなものをもっとむちゃくちゃにするんですけど、役割を一切決めない。監督は誰とかカメラマンは誰とか一切教えないで、みんなでよく話し合ってやってね、っていうとぐちゃぐちゃになるんですよ。なんとなく全体で物事を解決していくのね。役割を教えていく映画教室もあるだろうけど、僕の教室では、ぐちゃぐちゃになってやっていく。たぶん今回もそうですよね?みんなでぐちゃぐちゃになって、合宿とか、食事とか。

卓爾:生活もみんなで、自分らでやってく。

諏訪:日本だと、役者さんは凄く馬鹿丁寧に扱われちゃうけど、何でもやる、色んなことをやる。その中で生まれてくる関係は、役割分担じゃないから、人間関係、なんですよね。

卓爾:うん。

諏訪:その人間関係って、友達とかそういうのに近いじゃないですか。

卓爾:役割に隠れられないので逆にシビアかなあというのも、あったりはしたんですけどね。

諏訪:そうですよね。それってなんか、かけがえがないことだなあって思ったんですよ。

卓爾:ええ。

諏訪:平田オリザさんは演劇をやるじゃないですか、こどもと。

卓爾:はい。

諏訪:で、子どもたちと映画やることに何の意味があるんだろう、なぜ映画なんだろうって問いかけが僕達の中にあって。共同作業ができるのは演劇もそうだし、何でも交換可能なんだけど、映画にしかできないことって何なんだろうって。

卓爾:何なんでしょうね。

諏訪:ある大学の先生がいっていたのだけど、今の暫定的な答えとしては、それは代替不可能性ってことと非常に深く関わってる。代替不可能性って何かと言ったら、交換できないこと。

卓爾:ああ。

諏訪:かけがえがないこと。その子は、その子でしかないってことが映画には映っちゃうってことなんですよ。

卓爾:ええ、そうです。

諏訪:あるいは、映画に関わることでそういうことが起きちゃう。俳優は、やっぱりまずはそのことを生きてるじゃないですか。それは交換できないことになんなきゃいけない。でもオーディションとかで監督が選ぶということは交換可能になるんですよ、この人にするか、この人にするかって。

卓爾:選ぶ、選べる。選んでしまう。

諏訪:その人はその人でしかないってことが映るのが、映画の凄さなんじゃないかなって。

卓爾:うん。

諏訪:なんかね。今日は拝見しながらね、全然関係ないけどペドロ・コスタのこと思い出して。

卓爾:あ、そうですか。

諏訪:ペドロ・コスタがこんなことを言ってたんです。例えば、今あなたが映画を撮っていて、カメラを置く。その前にトム・クルーズが立っている。トム・クルーズのクローズアップを撮る。その背景に200人くらいエキストラがいる。さあいくぞ、本番!というときに、エキストラの一人が気分が悪くなって、病気になって倒れた。あなたは撮影をやめますか、と。やめないですよね。交換可能だから誰か代わるって、通りますよね。彼は、僕はそのときに撮影をストップしなきゃならないような映画を撮っているって言ったのね。つまり、どんな人も交換不可能な関係においてしか映画を撮ってないんだ、と。この映画を見て、そういうことを感じたのね。思い出したというか。

卓爾:はい。いわば映画の俳優の学校で逆のことをやってるというか、プロになるためのなにかはまったく教えられず、逆のことをやって……。

諏訪:それはねえ、たぶん鈴木さんも僕も弱い監督だからですよ。

卓爾:あ、そうなんですね。

諏訪:弱くないですか?現場で。

卓爾:弱い…弱いです。

諏訪:弱いでしょ。僕は弱いです。

卓爾:あの、人の目を気にします。

諏訪:人の目を気にするし、人の言うことに、こう、すぐ気が飛ぶ…。

卓爾:すぐ従ってしまう。

諏訪:ペドロも言いますよ。僕たちは弱い監督だよ。で、強い監督ってどういう監督?

卓爾:ええ。

諏訪:ジョン・フォード。

卓爾:あ、はい。

諏訪:黒澤明監督や、もちろん小津安二郎だって強い監督なわけです。こうしなさい、こうなんですっていうふうに言える。いや、僕たちはまず人の言うことを聞くよ。でも、それが物を作る主体になっていくっていうのが現代の表現だと思うんですよ。弱い人しかものを作れないと思う、もはや。と僕は感じるのかもしれない。だから、まあ…。

卓爾:言葉の意味はあるかもしれないけど、一方で諏訪さんはすごい強いと思うんですよ。その強さっていうのはいわゆる、ジョン・フォードや黒澤明とか、そういうものではないですけど、伸ばしても切れない、ビョーンみたいな、ねばるねばる、みたいな。どうですか?

諏訪:(笑)。いや、まあね、やっぱり本当は弱いです。

卓爾:『M/OTHER』のメイキング見た時に、俺にもわかんねえよって、三浦(友和)さんとけんかしてるの見て。けんかっていうか、俺だってわかんねえんだよって(笑)。

諏訪:(笑)。…世界はもうわからないんだっていう弱さ。

卓爾:はい。

諏訪:と思うんですよ。

卓爾:そうですね。

諏訪:それがものを引き出してくれるというか、こういう関係を可能にしたんじゃないかって。でもそれはある意味で、強さですよ。そこまでやってもいいのだって、さっきいったような、バカボン的な強さというかですね。これでいいのだって言えば、監督って結構それだけで良い、みたいなとこあるじゃないですか。

卓爾:あ、それはありますね。

諏訪:あとはやってくださいって。

卓爾:ええ、ええ。

諏訪:逆もありますよ。みんな不安になって、ほんとにこれでいいんですか?って。うん、良いんですって言うだけっていうかね。でもね、そういう映画が、もっとあっていいんじゃないかなっていう気がしました。今日見ながらね。かつてはいっぱいあったんじゃないかって。

卓爾:かつてはいっぱいあったし、やはり映画は作るごとに更新されていかなきゃならない、同じことやってはいけないっていう意識はもっと強くあったような気がするんですよね。

諏訪:そうですね。

卓爾:そのために何をするかというと、たくさん映画を見て、たくさん本を読んで、いっぱい一人で勉強して、ただ現場でそれをひけらかすわけじゃなくて、こうみんなとワーって思ったことを出し合っていくみたいな感覚っていうか。

諏訪:それに近いというか、俳優たちが自分でそこにいて動いてるんだっていう感じが、やっぱりこの映画を豊かにしたんじゃないかな。そのためには、鈴木さんが限りなく弱くなるという風にしてこういう関係ができていくんじゃないか。ほんとに弱いって言ってるわけじゃなくて比喩的にね。たぶんそういう関係だったんじゃないかって。もちろん鈴木さんが、それは映画なのだって認識があるからできることで、ふつうは怖いからみんな権力者になろうとして、監督のようにふるまわなきゃ、とやったりするわけじゃないですか。そうじゃなくてもいいのだっていうのがとても大事なことだったんじゃないかって。

卓爾:やっぱり、率いてしまうとみんなついてきてしまうので。言うことは言わないといけないけど、何か言うとみんなそのとおりにそうしてしまう。それはどうしたらいいんだろうとか。僕はつい言ってしまうので、言わないで動くってないのかなと。

諏訪:僕はわかんないんですよ。まかしちゃうんです。

卓爾:ああ、そうですよね。

諏訪:それはたぶん一つの自分の戦略だと思うんですよ。

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