本年は、21作品を、「PFFアワード2014」入選作品として、9月の東京から始まる「第36回PFF」にて上映する結果となりました。
528作品を通し、「映画」という意味が大きく変わり始めたことを深く感じる年となりました。
「映像を撮ることが日常に手軽にある」という環境がもたらす作品の変化が、いよいよ顕著になってきたこと、「映画」への距離が、千差万別なことを実感し、戸惑うほどでもありました。
それは、作品が多彩になったということなのか、と問われれば、類似性は濃くなっています。
同じようなところをみて、同じような答えを探す、同じようなものを食べ、同じような音楽が流れ、同じようなタイトルで提示される、社会の閉塞をそのまま反映する状況を知る4か月のセレクション期間でもありました。
同時に、力作が次から次へと登場し、決断に苦渋する日々でもありました。
PFFでは、まず最初に、3人のセレクション・メンバーが、1作品を最初から最後まで観る。
3名の討議を他メンバーも一緒に聞きながら、一次通過作品を決める会議を持つ。
一日を費やすその会議の過程で、一旦一次通過作品を決定し、翌日からメンバー全員が、その作品群をみていく。
ここからが、入選作品を決定する、二次審査となります。
その過程で一次通過作品の追加推薦をメンバーから受け付け続けます。ですので、PFFの一次通過作品リストは、最後に発表されます。
一次通過作品に加え、一次審査会議で話題に上がった作品や、追加で推薦された作品を拝見し、二次審査に組み込んでいくことと、一次通過作品に対するセレクション・メンバーの意見を入れながら、入選作品を決定することは、PFFディレクターの責務となります。
入選作品は、いずれも、セレクションメンバーの誰かを熱狂させた作品ですが、多数決は存在しません。そもそも全員が激賞する映画は存在せず、そこが映画、ひいては創作物の魅力の一つであることを改めて納得する本年の結果です。
本年の入選作品は、短編、中編、長編、そして、ドラマ、ドキュメンタリー、アニメーションと混在を極め、つくり手は高校生から社会人までと、驚くほど振り幅の大きな作品群となりました。これがまさに、応募に、長さや年齢、ジャンルの規制のないPFFならではの結果なのですが、ご覧いただく観客の皆様や最終審査員諸氏を大いに悩ませるプログラムになることでしょう。また、セレクションの途上で、劇場公開が決定した作品や既にプロとして活躍している監督の作品が登場するなど、20世紀には起き得なかった事象も生まれ、昨今の自主映画の状況の活発さを体感しました。
入選作品はこれから多くの人の手で紹介され、情報が積み重ねられて行くのですが、入選ではありませんが、審査会議の席上で特に熱く語られた作品群を記しておきます。
いじめからの脱却、その願いが満ちる『新しい朝』(冨永太郎監督)、度胆をぬかれる子供たちの必死の姿が記録された『Alternative children』(松林紘幸監督)、かっこよさを次々に展開してくる『CME, that's why we bring dogs.』(布村喜和監督)、忘れがたい主人公と明確なイメージに討議が尽きない『Journey to Mt. Fuji』(Cris Uberman監督)、まさかの展開に呆然と引き込まれる『セロリ』(ペドロ・コヤンテス監督)、映画的熱量と気迫に打たれる『ふざけるんじゃねえよ』(清水俊平監督)などは、メンバー全員にとって、忘れがたい映画体験でした。
改めまして、皆様の、映画をつくろうという情熱、完成させる力に敬意を表します。
そして、映画をつくる人たちのためにプログラムをすすめる「第36回PFF」の会場で、皆様にお目にかかれますことを、大きく期待しております。
ご応募ありがとうございました。
2014年7月11日
PFFディレクター 荒木啓子
PFFアワード2014の入選21作品は、応募作品528本から、PFFディレクターの荒木と14名のセレクション・メンバーが選びました。まず1作につき3名が鑑賞し、審査会議で意見を交わし、2次審査に残った作品を14名全員が鑑賞。4か月にわたる審査を、メンバーそれぞれに振り返ってもらいました。
江川太洋(フィルムラボスタッフ)
3月の下旬から6月の終わりまで、仕事から帰宅しては夜な夜な自主映画を見続けるという生活を過ごしました。しかもただ見るだけではなく、どの映画を選ぶかを考え続けるので、映画を見ていない時間にも、映画は自分の中で共に在り続けます。こんな長い期間を映画と共に過ごしたことなんて、今までの僕の人生には一度もなかった出来事です。映画を1人で見ている間は、とある作品の「個」が大勢の「他」を圧して突出する瞬間を注視し続けていたように思います。それを判断するのも当然自分自身です。映画の「個」と、僕の「個」がどう響き合うか、それだけを結局は見ていたのだと今にして思います。そして、2度にわたる集団での審査会議の席は、審査員の方々の「個」が衝突し合う場です。あくまで平静な協議の席中、静かに打ちのめされ、価値観が脆くも崩壊していく過程を内から眺めるという、痛みを伴う爽快に浸っていました。この席で忘れ難いのは、ある審査員の方が発した次の発言です。「青春とか社会状況とか、そんなものは結局映画には一切映らないじゃないですか。映画は見えるものと、聴こえるものの集積でしかないじゃないですか」。映画についての自分の価値観を根底から覆されるような劇的な発言です。これははっきりと良いことです。自分が成長を遂げるということは、本質的にこういうことなんだと思いました。予備審査の終了後にPFF事務局の方とお話する機会があり、その方は、「これから入選した監督さんたちと、映画祭に向けて1年を通じて関わっていきます」と言いました。何と!予備審査は確かに4か月ほどで終わりましたが、事務局の方々はまさに1年を通じて映画祭と共に歩むのだと思うと、その時間の厚みがどっと押し寄せてきて、毎年必ず桜が咲くように、毎年開催され続けてきたこの映画祭自体が、そのような時間の層の連なりと共にあったということに思い至ったのです。
江村克樹(PFFスタッフ)
2005年からPFF事務局スタッフとして自主制作映画に関わっている。この10年で映画を取り巻く環境には、フィルムからビデオへのフォーマットの移行をはじめ、様々な変化があった。しかし変わらないものもある。毎年日本のどこかで何百本とつくられているであろう自主映画の、その圧倒的な数だ。それは自主制作に関わるものにとっては喜ばしい事実だ。単に、PFFへの応募が増えるからなどではなく、ゼロからものをつくるという行程を経て、ひとつの作品を完成させられる人たちが日本にはこれだけいるのだ、という未来への頼もしい証明に他ならないからだ。PFFの応募作品は必ず3人以上の目を通して観られる。そこから先に作品がどういう道を辿るかは誰にとっても未知の領域だ。PFF終了後に世界中の映画祭で喝采を浴びた近年の入選作品のことをだれが予想できただろうか。作品を世に出すというのは、どこかで誰かがあなたの作品を観て、作り手の与り知らないところで大化けする可能性を秘めた行為だ。そしてそれはほんの少しのきっかけで始まっていく。観ている側が求める唯一の基準は、どんな種類のものであれ、作品から熱が発散されているかどうかだろう。つくり手が考える以上に、観ているほうはそれには敏感だ。今年のセレクション・メンバーの、作品への感動的なまでの真摯な向き合い方を見てより一層その思いを強くした。あとは、願わくば“自主”の名の通り、何をやっても自分が責任をとれるのだから、さらに飛躍した自由な精神たちと出会いたい。
小川原聖子(書店員)
今回初めて予備審査に参加させていただいた約4か月間は、非常に刺激的で、楽しい日々でした。映画を作る情熱と衝動は、観る側にとっても問題の解決となり救いとなることもあるということをあらためて感じました。印象に残った作品としては、数多あったいじめなど若い世代の現状の問題のテーマの中でも、『独裁者、古賀。』は清新な青春映画でしたし、『還るばしょ』、『人に非ず』、『丸』は、本当の「居場所」を探す物語が通底していたように思え、個人的な世界が普遍的な宇宙へ飛躍する瞬間を見た気がしました。映画史的に新奇な試みに驚かされながら、『多摩丘陵の熊』、『僕だけできないタイムスリップ』(本間名音監督)などの個人的には古典的とも思える映画の魅力を伝えてくれる作品もありました。今回の審査全体を通じては、昨今の劇場公開映画で見慣れた顔だけでなく、たくさんの印象的な顏を観ることができたのは大変おもしろく、映画の豊かさを再発見できた思いです。入選した作品に限らず、それぞれの作品の世界が、その情熱の分だけ、できるだけ多くの人へ届くことを願います。
小原 治(映画館スタッフ)
この原稿を書いている今日は7月30日。予備審査を終えて1か月が経ちましたが、決勝を9月13日に控えたこのタイミングで何かを総括できるはずもありません。本番はこれからです。今の段階で言えるのは、今回は惜しくも入選しなかったけど、個人的に魅かれた作品も確かにあった、という事実です。文字数の許す限り、そのタイトルと監督名を、この場を借りて紹介させて下さい。『橙と群青』(赤羽健太郎監督)、『エピローグが待ち遠しい』(岩田隼之介監督)、『彼岸少女』(岡室耕司監督)、『わかれみち』(小野光洋監督)、『さよならマチコ』(加藤正顕監督)、『ひとまずすすめ』(柴田啓佑監督)、『ふざけるんじゃねえよ』(清水俊平監督)、『秒針の向こうで』(菅原涼太郎監督)、『おかえりNASAい』(須藤なつ美監督)、『女王の帰還』(高崎哲治監督)、『ハイサイゾンビ』(高山創一監督)、『CME,that's why we bring dogs.』(布村喜和監督)、『サイン』(ハセガワアユム監督)、『Blue alien』(畠山準一監督)、『セロリ』(ペドロ・コヤンテス監督)、『終わりのない歌』(甫木元空監督)、『NOWHERE』(松本浩志監督)、『WGMM@REVERSi.jp』(宮崎 靖監督)、『アカリと銀河』(山本圭祐監督)。以上監督名50音順
片岡真由美(映画ライター)
カタログ編集を手伝う関係で予備審査に参加して、10数年。毎年、前年の反省から、意気込む。「今年こそ、粗削りでも、新しい感性が光る作品を見つけるぞ!」と。今年の1次審査で観た作品115本のなかで、2次審査にあげたいと思った作品は、12本。10本につき1本の割合だ。ほかの9本のうち、惜しいと思う作品が2本ぐらいとして、残る7本に対しては、「ナゼコレヲヒトニミセヨウトオモッタカ」と、静かな怒りすら覚えることが、ままある。膨大な塵芥(失礼!)のなかから数少ない光る石を探す作業を日夜続けていると、好き嫌いで判断してはいけないと思いつつ、自分の心の琴線に触れる作品に出会えば小躍りし、同時に、いつしか「粗削りさん」への寛容の心を失っていく。一方で、演技もストーリー展開も淀みない立派な作品に対しては、「でも、新しいだろうか?」と、自問してしまう。そんなこんなで、2次審査会議が終わると、「よくわからない」ものに対する拒絶感が強い我が鑑識眼の保守性と狭量さを突きつけられ、毎度、落ち込む。ゆえに、審査はつねに楽しく、ためになる。1次審査で強く印象に残った作品を鑑賞順に挙げます。『知らない町』(大内伸吾監督)、『レナ』(立石逸平監督)、『たぬきがいた』(榊 祐人監督)、『而立』(尹 政旻監督)、『mosquitone』(赤池佑介監督)、『ハイサイゾンビ』(高山創一監督)、『別れ道』(戸祭朝美監督)、『ふざけるんじゃねえよ』(清水俊平監督)、『或る夜の電車』(金 允洙監督)。
木下雄介(映画監督)
僕も年を重ねて、自分より若い人たちと触れあう機会が増えた。彼らは概して主義主張をあまり押し付けあわない。見えにくい。だからといって、若者たちが何を考えているのかわからないと切り捨てたくない。2006年以来、2回目のPFF予備審査。152本の自主映画をひたすらに観続けた。信じるものを掲げても現実はそれほど変わらないかもしれない、それでも極めて理性的に振る舞おうとする監督たちの姿を映画の中で何度も見かけた。例えば、自虐的な笑いに潜む本心、耐える姿に込められた感情の機微、悲観的な状況で小さな喜びを共有すること。経験値も、おかれた環境も、できることもできないことも、あまりに厳しく冷徹に自覚しすぎるほど自覚しているのだと思う。そのシビアに現実を見つめる視線を武器にして、そこからしか見えない世界の美しさや歪みを発見し、押し殺してきた感情や切実な叫びを自分なりの正直さを持って映画で描く事によって、果敢に挑戦する若者たちが確かにいた。作り手が今よりも一歩先の現実へ近づこうと邁進する強度を持つ映画。ひとりひとり感じ方は違えど、その意思の持つ普遍的な意味を共有することができる映画。そういう映画と出会う事ができた。映画は現実を動かす力を持っている。作り手から観客へ、観客から観客へ。そして観客から作り手へ。世代を越えて、ぶつかり合い、高め合いながら、アクションへとつながっていく。祭りでその力を信じよう!現に映画は僕らの人生を変えたではないか!
小林でび(映画監督・役者)
今年の応募作品に対する印象で大きかったのは、卒業制作作品が多かったな~ということ。もちろん卒業制作作品をディスるつもりはないのですが、やはり学校の行事として撮られた作品には「このタイミングでこの作品を撮るのだ!」というハッキリとした動機を強く感じられない。とりあえず映画を撮ることが決まってから考えだされた、ひねり出されたストーリーでありキャラクター。そんな印象の作品が多かったのです。いま日本は刻一刻と変化しているし、日本人の生き方…人々の人生に対する姿勢、仕事に対する姿勢、恋愛に対する姿勢etc.etc.には大きな変化が起きつつあると日々感じています。それが現実の世界。では映画の世界はどうなのか? 今年のPFF応募作品に関して言うと、その日々の変化を鏡のように映した作品は非常に少なかったように思います。新しい監督たちには、もっとこの世界の新しい生活の姿を描いて欲しい。そんな新しい映画を僕は観たい。映画の記憶や、映画史に対するリスペクトは大切なことだとは思うけど、我々が描かねばならないのは現在の日本です。もっと今現在の自分にとって切実な映画を撮って欲しい。そんな映画が観たい。過去の映画にでてきたようなキャラクター達が、過去の映画にでてきたようなストーリーの中で、過去の映画にでてきたような行動をし、過去の映画にでてきたような台詞を喋るような映画は、もうすでに巷に溢れています。なんでそんなものを仕事でもないのに撮るのでしょう?カラオケを楽しむような感覚なのでしょうか? それで満足なのでしょうか?たしかに最新の日本人像を、映画という時間の流れの中に描くのは難しいことかもしれません。手本が無いのだから膨大な試行錯誤が必要でしょう。でも皆さんがリスペクトしている過去の傑作映画達もまた、同じ過程を経て造り出されたのだと僕は思っています。だからこそ過去の傑作映画達は「その時代の映画」になれたのだと思うのです。「この時代の映画」を撮りましょう。そんな作品たちがPFFに送られて来ることを僕は強く願っているのです。P.S.『Super Tandem』はブッチギリで「この時代の映画」だからっ! 必見!!!
杉浦真衣(書店員)
今からおよそ4か月前、「1秒たりとも逃さず観てね」そう言ってリストと共に大量のDVDを渡された。それからの日々は映画また映画。日が昇り映画、日が沈み映画。夕飯を食べ終えたら映画、風呂から上がってまた映画。とにかく驚くべき量だった。こんなにも多くの人々が、映画を志し制作に関わっている事に圧倒され、同時に心強く感じた。無事審査を終えた今、何よりもまず、応募した方々の大変な情熱と創造力に拍手を送りたいと思う。残念ながら上映には至らなかったものの、心に残った作品のうち幾つかをここに挙げたい。ホットプレートに残った汁を掌ですくって舐める腹ペコの子供たち、喧嘩に負けて号泣する小さな体、あの時代の記憶は夢か現か、夏草の匂い立ち込める『Alternative children』(松林紘幸監督)。風の音に無残なまでにかき消される叫びは青春真っ只中の情けなさと苛立ちそのもの、中途半端なゾンビ映画撮影の果てに待っていたのは海辺での無様な取っ組み合い『君に捧げるLOVE ZOMBIE』(田中 慧監督)。毒に膿んで赤黒く染まる街の重苦しさ、背後にじっと佇む夫婦、その横並びのシルエットが脳内に小さく張り付いて離れぬ『溶解の街』(田山光監督)。車中のふたり、熟年女のねっとりとした不穏な欲望、カメレオンの捕食のような突如の展開に痺れて席を立てなくなった『セロリ』(ペドロ・コヤンテス監督)。かけがえのない瞬間瞬間の人の表情を映し取り観る者を魅了、深い感動を残した夏祭のドキュメンタリー『真夏の火光』(岩倉宗一郎監督)。ある意味修行のようなストイックさで臨むことを強いられた過酷な4か月ではあったが、多くの素晴らしい作品に出会うことができ、忘れがたい至福の時間を過ごした。改めて今回応募して下さった全ての方々に感謝したい。本当にどうも有り難うございました!
中山康人(教師)
「リアルの壁」にいつもぶち当たる。さっきの映画はリアルだったとかそうではなかったとか、映画館を後にする人は決まり文句のようにその作品を語り、自分だけの価値基準で仕分けてしまう。では、何がその人にとってリアルなのか? 私自身にとってのリアルとは何か?職業柄、学校を舞台にした映画に否応なく反応してしまう。全応募作品を網羅したわけではないが、ほとんどの作品はいわゆる学校ってこんなとこだよねっていう括りで描かれることが多い。ここで言う学校とは、ゴシップにぎわせている一部の道を外した教師が所属する場や、凄惨な事件の場である学校のこと。しかし、圧倒的大多数はそこまでのボーダーは踏み越えていないはずである。そうでなければとっくに日本の教育現場は崩壊しているに違いないから。とするならば何が学校のリアルか? 子ども達のリアルか? 私は今回の応募作品の中で現場のリアルを感じてしまった映画がある。その作品には、今を生きる中学生と教員の、演出を施しても隠しきれない無垢な人間性に胸を掻きむしられる思いがした。明日も頑張ろうと勇気をもらった気さえする。しかし一方で、それをリアルとは断じて思えない人も世の中にはいるだろう。なぜなら、リアルとはその人の知識や実体験を含めた経験値の範囲に収まる場合に限られるから。予備審査員として、そのスタンスは常に忘れないようにしている。リアルという言葉が一人歩きしてある種の価値観をもつことを否定はしないが、それ自体は観る者の尺度によって違い、受容するも拒絶するも自由である。しかし、リアルに描くことをひとつの手段として「普遍的な何か」を提示してくれる作品。私はそんな映画と出会うことを楽しみにしている。前出の作品は『ひこうき雲』。この映画は、とんがってなくても青臭いってかっこいいことだと、発展途上の人間の可能性を感じさせてくれた、真にリアルの壁を突き抜けた出会いであった。
原 武史(レンタルビデオ店スタッフ)
仕事を終え子供が寝静まった後に約160作品を地道に観させて頂きました。審査させて頂く上で心がけているのは、観る者を「おっ!」と思わせる何かを見落とさない事。眠い目をこすりつつ、レンタル店の棚にそのまま陳列してしまおうかと思う程の力作を発見した瞬間は、今年も至極の喜びでした。審査させて頂き、印象に残った作品は下記になります。取材対象の懐に飛び込む情熱と巧みな構成に唸った『沖縄/大和』。マネージャー視点で描かれる部活青春劇が新鮮だった『ガンバレとかうるせぇ』。愛すべき男たちの魅力満載『モーターズ』。突拍子もない発想に打たれた『丸』。不器用な孫への愛が切なく愛おしい『ナノアルハナ』(牛尾文哉監督)。余白がない強烈な映像に圧倒されっぱなしだった『CME,that's why we bringdogs.』(布村喜和監督)。どっしりとしたショットと独特のリズムに引き込まれる『流れる』。皆様の作品をDVD店の棚に陳列し、そして、その作品に影響を受け新しい映画人がまた生まれる…そんな日が来るのを願っております。
真壁成尚(映像ディレクター)
技術的に未熟なのは仕方ない。役者がアマチュアだって関係ない。ロケ地がショボいのも構わない。なんか色々ダサくたって目をつむりましょう。ただ重要なのは、“志”があるかどうか、だと私は思っています。表現する者として、新鮮な着眼点があるか? 普段何を感じ、どのような人間観をもち、そして鑑賞者に何を感じてもらおうと試みているのか? そういった思いが原石として垣間見える作品を、私は評価しようと努めています。そして支援したいと考えています。あるいは、映像作品をつくる原初の喜びに満ちた若い作家も、応援したいと思っています。私は一予備審査員にすぎませんが、この私の1票が、誰かの自信や自己肯定につながり、さらなるステップアップのきっかけに繋がるのかと思うと、それはそれはやりがいのある仕事でした(もし1次審査で私が推さなければ、この作品は日の目を見ないことになっていたのでは? という出会いも何度かありました。だからこそ、また来年もやらねば!という責任感も湧いてくるものです)。だから審査期間の約4か月間、応募作品と真剣に向かい合う日々には、とても集中力と体力を費やします(制作者たちの未来を左右してしまう、責任重大な判断を下すわけですからね。その辺、PFFは最も公正なコンペティションだとご信頼ください)。それにしても、消耗しますね、毎年…。
皆川ちか(ライター)
人間にはどうして物語が必要なのか。多くの作品から痛切に、切実に、そんな叫びが聞こえてきました。それは「私」の物語であったり、「彼ら」の物語であったり、「物語」そのものについての物語であったりと、どれもこれもが非常に濃密。かつヘヴィ。審査することによって自分自身も試されて、「物語」に対する自身の姿勢や立ち位置を、改めて確認することができました。土壇場の状況で人間性が証される『カナリア』(加瀬 聡監督)。得体の知れない“なにか”が蠢いている『アメリカの夢』(大塚信一監督)。ラストに向かうワクワク感が尋常ではない『でぐち』(桑原飛向監督)。物語の力と同様に、物語の限界にまで目を向けている『新しい朝』(富永太郎監督)。つくり手自身の物語では? と想像させずにおけない『わかれみち』(小野光洋監督)。人間関係への切なる祈り『凪』(橋本一郎監督)。別れること、変わること、ひとりになることへの肯定『ナノアルハナ』(牛尾文哉監督)。愛ではなく、愛についての物語『Plastic Love Story』(中川龍太郎監督)。たくさんの物語から多くの気づきをいただきました。ありがとうございました。
森下くるみ(文筆家・女優)
「審査」とひとくちに言っても、高いところから値踏みするように観たり、過去作品と比較して優劣をつけ、ダメなものは斬り捨てるといったようなものではなく、とにかくひとつひとつの作品を丁寧に観ていくことが大事なのだと、最初の打ち合わせで伝えられたのを今でもよく覚えています。作品に向き合っていると、人と会ってじっくりと話をしているような気がして不思議な気持ちになりました。また、1次審査の段階では「タイトルと監督名」しか情報を与えられないのも、非常に新鮮でした。とはいえ、「監督はこの作品でどんなことを言わんとしているのか」に耳を傾け、目を凝らし、集中して作品を読み解いていかなければいけません。膨大な映像作品を鑑賞して1次審査に残し、さらに2次審査へと絞り込んでいくのはなかなか大変な作業でしたが、推薦した作品が入選したときにわいた喜びと、責任の重みは忘れがたいものでした。今回はとても貴重な経験をさせて頂き、本当にありがとうございました。
結城秀勇(ライター・映写技師)
今回の審査の過程で一番印象的だったのは、いわゆるドキュメンタリー作品が応募作品中で、質、量ともに目立って見えたということです。審査を通過した『沖縄/大和』『波伝谷に生きる人びと』に限らず、対象自体の面白さ、またその切り取り方語り方という点で際立った作品が多かった気がします。それはこの映画祭単独の傾向というより、世界的な映画の傾向のひとつと言えるのかもしれません。『アクト・オブ・キリング』や『収容病棟』、『消えた画』や『リヴァイアサン』などといった近年のドキュメンタリー作品には、文化人類学的アプローチなどを通じて、既存のフィクション映画に対してもなにか新しい物語の語り方のアイディアのようなものを与えてくれているのではないかという印象を持っています。そうした混交の中で来年以降も、よりいっそうこれまでに見たことのないような作品の応募が増えればと思います。そして個人的に今年の審査を語るのに避けて通れないのは、『流れる』という作品との出会いです。自分が「これこそが映画である」と信じている領域の可能性を切り開いてくれるような才能との出会い、そしてそれが自分とはまったく別のバックグラウンドを持ったところから出てくるその瞬間に立ち会うこと、それは得難い幸福な体験でした。
※審査員名あいうえお順に掲載