イントロダクション

これは喪失を抱えて生きる、私たちの物語。世界が注目する鶴岡慧子監督、鮮烈なる劇場デビュー作。未来を担う映画作家の育成プロジェクトとして、園子温、矢口史靖、李相日、荻上直子、内田けんじ、石井裕也など、現在第一線で活躍する監督たちの商業デビュー作を世に送り出してきたPFF(ぴあフィルムフェスティバル)スカラシップ。その第23回を飾るのは、鶴岡慧子監督による青春映画『過ぐる日のやまねこ』。初長編『くじらのまち』(立教大学卒業制作)が「PFFアワード2012」にてグランプリ&ジェムストーン賞をW受賞、ベルリン国際映画祭ほか世界10カ国以上で上映され、二作目『はつ恋』(東京藝術大学大学院課題作)がバンクーバー国際映画祭ドラゴン&タイガー部門にノミネートされるなど、国際舞台でその才能を注目されてきた26歳の新鋭女性監督が、待望の劇場デビューを果たす。

あの人はなぜ、行ってしまったのだろう。そして私はなぜ、ここにいるのだろう。
都会の喧騒から逃れるように、幼少期を過ごした田舎町に向かった21歳の時子。いつかそこを出ていく日を待ちながら、孤独にキャンバスに向かう高校生の陽平。緑深い山の中、長年放置されていた小屋で偶然に出会ったふたりは、かけがえのない人を失った者同士、互いの気持ちに感応し、癒されていく。そして失われていた記憶が蘇る時、ふたりを取り巻く「死」の真実が明らかになる——。これまでの映画でもここにいない人の面影を追い求める若者を登場させてきた鶴岡監督が『過ぐる日のやまねこ』で描くのは、遺された者たちの再生の物語。山奥に棲む幻のやまねこをモチーフに、過去と現在、この世とあの世、都会と田舎、記憶と忘却の狭間をさまよう主人公たちが、ささやかで心あたたまる交流を経て一歩前に踏み出していく姿を映し出す。また、喪失がもたらす痛切な思いを軸に、地域社会の親密さと息苦しさや、子供から大人への成長を観客の五感に訴えかける映像で見せるセンスは、今から18年前に河瀬直美監督の名を世界に知らしめた『萌の朱雀』を想起させる。2015年、「不在」を受け止めて生きるすべての人に希望を与える珠玉のドラマが完成した。

木下美咲(『共喰い』)と泉澤祐希(「東京が戦場になった日」)のみずみずしい演技。舞台は自然と人が共生する、日本の原風景のような長野県上田市。アンニュイな魅力を持つ時子役に扮するのは、青山真治監督『共喰い』のヒロインで脚光を浴びた木下美咲。孤高の雰囲気を漂わせる陽平役には子役出身で、最近はドラマ「東京が戦場になった日」「マッサン」などで強い印象を残した泉澤祐希。将来が期待される若手実力派のふたりが、揺れ動く心情の一瞬一瞬を繊細に演じる。撮影は鶴岡監督の出身地であり、映画『サマーウォーズ』や来年の大河ドラマ「真田丸」のロケ地としても話題の長野県上田市で行われた。神秘的な山々と森林、のどかな田園地帯、生活感あふれる懐かしい家並みなど、日本の原風景を思わせるふるさとの描写は、誰しもの郷愁を呼び起こすだろう。

ストーリー

ある夏の夜。ガールズバーの仕事をクビになった21歳の枝波時子(木下美咲)は、行くあてもなく東京の街をさまよい、ふと長野行きの深夜バスに乗り込む。向かった先は、山のふもとの小さな田舎町。そこは時子が8歳まで父と過ごした場所だった。だが時子は当時のことをあまりおぼえていない。13年前のある朝、絵描きの父は「山猫を探しに行くよ」と言って時子を連れて山奥に分け入り、そのまま帰らぬ人となった。その田舎町に生まれ育った加野陽平(泉澤祐希)は、絵を描くのが好きな高校2年生。材木店を営む父の正一(田中隆三)と二人で暮らしている。最近、材木店の従業員で、陽平が兄のように慕っていた和茂(植木祥平)が山の中で死体となって見つかった。それ以来、陽平は学校をさぼり、 和茂が生前に連れて行ってくれた森の中の古い山小屋でキャンバスに向かう日々を送っている。かつて住んでいた山小屋を訪れた時子は、陽平と出会う。一目でよそ者とわかる格好をし、手に怪我を負った無一文の時子に、陽平は着替えや食べ物を与える。互いが抱える喪失感や孤独を感じ取った二人は、他愛のない会話を交わしながら、穏やかな一時を過ごす。その頃、町では早速時子の存在が怪しい女として噂になっていた。和茂がいなくなってから心を閉ざしがちな陽平を心配する幼馴染のアキホ(中川真桜)も、陽平と時子の姿を見かけて不安を募らせる。そしてアキホから二人の様子を聞いた正一は、かつて消防団の一員として、山の崖の下で倒れている時子父子を発見した時のことを思い出す。時子の記憶もまた、少しずつ甦りつつあった。山猫の幻に導かれるように、時子と陽平は山の奥へ進んでいく。日が暮れた頃、崖の上で陽平は時子に和茂の面影を重ねる。二人を現実に引き戻したのは、山小屋が壊される音だった。山小屋に駆けつけた二人は、燃え盛る炎のそばに正一を見つける。思わず詰め寄る陽平と時子に、正一は「もう忘れていい。忘れることを怖がっちゃダメだ」と言う。二人は森の闇の中に、光る二つの眼を見る——。

画像