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橋口亮輔監督スペシャルインタビュー

'92年のデビュー作、第6回PFFスカラシップ作品『二十才の微熱』から、日本映画界を圧倒した昨年の『ぐるりのこと。』まで、一貫として人との繋がり、人と社会の関係性を繊細に描いてきた橋口亮輔監督。そんな橋口ワールドの過去、現在、未来とは?

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[1] 自分だけの映画を作るために 自分の個性を見つけようとした

―― 橋口監督が最初に映画にハマるきっかけは何だったんですか?

SFが元々好きだったので、SF映画を撮ってみたいというのがあったんじゃないですかね。当時は『スター・ウォーズ』('77)がアメリカでヒットして日本公開が1年後というころで、雑誌に“君にも撮れるSFX”みたいな特集記事が載ってたんですね。それを読んで、こうやって撮るんだ? やってみたいって単純に思ったんです。しかも深夜放送の『11PM』とかでは、たまたま学生が作った、灰皿を糸で吊るしてUFOに見立てた8ミリ映画なんかもやってたんですよ。それを観て、大学生でこんなもんか? 僕の方がもっとスゴいのが撮れると思って、ミニチュアを作ったりするのは好きだったし、忍耐力だけはあるので、こつこつシナリオを書いたりしていたんです。でも将来、映画監督になりたいとか、そういうことは一切考えてなかったですね。

―― 映画を観ることより、作りたいという欲求の方が先だったんですね。

そうですね。普通は監督さんに憧れたりするんでしょうけど、自分の場合は作るってことの方が先に来ちゃいましたよね。

―― 実際に8ミリ・カメラを手にしたのは何歳のときですか?

16(歳)。

―― 最初に撮ったのは?

SFの『レベル7+α(アルファ)』('78年)。いきなり超大作だったんですね。

―― それが、自分のことを描く手段としての映画になったのは?

もう1本『サンセット』('79年)という映画を撮った後ですね。将来のことはまだ考えてなかったけど、とにかく(故郷の)長崎を離れたくて大阪芸大に行ったんです。そしたら、それこそ日本各地から学生が来ていて、実験映画もあれば人形アニメもあるし、私小説風のものもあれば、ドキュメンタリーもあって。大阪芸大という学校柄、ヤクザものや戦隊もの、2時間ぐらいのトレンディものみたいな作品まであるんですよね。それで、映画にはいろいろな種類があるんだ、自分が作りたいものを作りたいように撮っていいんだってことにまず驚いたんです。と同時に、大学に入って初めてフランスのヌーヴェル・ヴァーグ、イタリアのレアリスム、アメリカン・ニューシネマ、そして日本には黒澤(明)、溝口(健二)、小津(安二郎)という巨匠たちがいたことを知り、映画の全体像みたいなものを理解していったんです。

ところが、自分の映画といったら『レベル7+α』と「夢を捨てちゃダメだよ!」って内容の『サンセット』でしょ(笑)。だからどうしようかな、俺? と思って。それから自分だけの映画って何だろう?って考えたんですね。自分という人間は世界にひとりしかいないわけだから、誰にもない個性があるはずだと。それまでの18年間は、自分は本当に平凡な人間だったけど、そんな自分でも個性はあるはずだと。他の人にとっては心にとまらなくて素通りしてしまうような事柄でも自分は好きと思うかもしれない。そういうのを一個一個、重箱の隅をつつくように映像にしていけば、それが個性になるかもしれない。人は何それ?って言うかもしれないけど、っていう、ほんの微かな望みでしたよね。

―― その“個性”はどういう形で見つかったんですか?

いちばん大きかったのは、高校三年のときに両親が別れたことですね。それが自分の中ではいちばんドラマチックな出来事だったし、初恋もその三年間の間にしたので、それを映画にしようと思って『ララ‥1979~1981』('83年)を撮り始めたんです。それが自分の今に繋がる出発点なんですけど、当時は自分の内面を抉るなんて考えは一切なかった。でも見直してみると、自分の資質みたいなものがすでにここにあって。何の覚悟もないのに、すっごいキツい話をよくやってるよなーと思いましたね(笑)。

―― 撮ってるときの気分はどうでした?

楽しかった。だって撮影なんて、後輩を呼んできて、コーラをおごるからこう動くのをこう撮ってみたいな、そんな感じですもん(笑)。

『レベル7+α』
(1978年/8ミリ作品)

『レベル7+α』
(1978年/8ミリ作品)

『サンセット』
(1979年/8ミリ作品)

『サンセット』
(1979年/8ミリ作品)

『ララ…1979~1981』
(1983年/8ミリ作品)

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