第32回ぴあフィルムフェスティバル

JAPAN国際コンテンツフェスティバル

PFFアワードについて

セレクションを振り返って

以下の文章は、2010年4月9日の「PFFアワード2010」入選発表時に掲載した文章です。

「第32回ぴあフィルムフェスティバル」コンペティション部門「PFFアワード2010」
入選作品を発表します。

ご応募いただいた527作品から、16作品が、本年の映画祭で上映される結果となりました。
審査のプロセスは、3段階に渡ります。昨年12月1日の締め切りから、1作品を3名で必ず最後まで観る「一次審査」を経て審査会議を持ち、討議のうえ一次通過作品に推された作品を、次は15名の審査員全員で観る「二次審査」を行い、一日がかりの審査会議のうえ、入選候補を絞り込み、最終的にPFFディレクターの判断で本年の入選作品ラインナップが決定されました。

入選作品一覧にありますように、長編、中編、短編作品が混在し、監督の年齢も14歳の幅があり、作品の内容も多彩です。変わらず東京近郊在住の方が多いのですが、関西、金沢、そしてオーストラリア在住の方もおられます。加えて本年は、女性監督の増加が特徴かも知れません。
いずれも、自分にしか出来ない映画を探して、力を尽くしている作品です。ひとりでも多くの方に、これら最先端の映画を実際に体験いただきたいと願っています。東京会場では、2作品を組み合わせて8つのプログラムで展開し、2回の上映を予定しています。きっと素晴らしい出会いがあることを約束します。

さて、応募作品を拝見しての、本年の総評をお伝えします。
近年ますます感じることですが、俳優陣が充実しています。「自主映画は同級生がつたない演技をする」というイメージが、まだまだ一般には大きいと思われますが、今やそれは遥か昔の物語です。現在の自主映画は、プロ&セミプロの俳優が素晴らしいコンビネーションをみせてくれます。入選には至らなかった作品の中にも、そのままテレビ放送可能なドラマが多数ありました。

また、音楽も力があります。実はPFF事務局では、90年代からオリジナル音楽の使用を奨励してきました。「自主映画=既存の音楽の無断使用」という歴史が長かったのですが、自主映画の劇場公開、テレビ放映、ソフト化などのチャンスが増える現在、使用許諾のない音楽を使った作品は、残念ながら展開のチャンスを失います。その状況を変えていきたいと取り組んできたキャンペインです。そして昨今、オリジナル音楽の使用あるいは、既存曲の使用許諾申請は、定着してきたと思えます。

一方、現在、一番問題なのは、音に対する気配りです。科白が聞こえない、音のバランスが悪い、効果音や環境音の使用に無頓着な、音の感覚の鈍い作品が増える傾向にあります。画と音と言葉とで紡がれるのが映画ですから、ひとつでもないがしろにしては、映画の力が減少します。是非、音について意識的になってみて欲しいと感じています。それはひいては、科白=脚本への気遣いや、作品タイトルの決定センスにも繋がることだと思います。

PFFアワードは、これから新しい映画の歴史を拓こうとする人たちのためのコンペティションです。先の見えない不安の中で、映画をつくっていくことを選んだ人たちと、そんな評価の定まらない映画を観る人たちという、勇気ある人々の出会いの場所が、ぴあフィルムフェスティバルです。
是非、会場で新しい出会いを実現してください。
本年は、7月16日から二週間の展開です。
心よりご来場をお待ちしております。

ぴあフィルムフェスティバル
ディレクター 荒木啓子

セレクションメンバーの方々にも振り返っていただきました。(掲載50音順)

■ 江村克樹 (ぴあフィルムフェスティバル)

今年も500本を越える応募作品がPFF事務局に集まった。応募者の存在を肌で感じるこの時期、事務局に籍を置く私はいつも襟を正す思いをし、真摯な気持ちで作者の全身全霊が込められた作品群の審査に臨まねば、と気を引き締める。今回も、約4ヶ月の間で150作品、時間にすると約120時間分もの自主映画と対峙させていただいたが、今年は例年にも増して本気度の高い、作り手のあらゆる覚悟が漲る作品が多かったという印象がある。
先日、今年の入選作品として16本が出揃った。そこで予備審査は終了となるわけだが、私の頭の中では入選には至らなかった多くの作品の一場面が、今もふとした拍子に流れ出す。過去に審査で観た作品にしてもそうだ。どうしても忘れられず、もう何年も繰り返し頭の中で再生されている作品が何本もある。そのようにしてひとの心から離れずに残っていくのが、ひょっとすると力のある映画というものなのか、などと最近は思う。

■ 近江浩之 (映画館映写)

「何やら映画らしきものが大量につくられていて、(今も)つくられている」
善し悪しではなく事実として、時間として圧倒的でした。しかもそのほとんどが独立して存在し、こちらからでは眺めることしかできないような作品ばかりだったような印象です。街中で行き交う人々にはそれぞれ生活があって家族があって…と、ふと思った時のあの眩暈を覚えるような感覚に陥るのに近い、もはや絶望にも似た…
また、映画(の歴史)とは関係ないところで単独で漂っているような印象も。
最終選考に残った作品は、そんな中でも系統の差こそあれ、確かに共通してある種の「切実さ」を持ち、外側(家族、他人、現実、時代、世界、ひいては映画)とのつながりを試みた、みている作品ではなかったかと思います。また、それが滲みでてしまった作品ではないかと。当たり前のことと言えばそうなのですが、そんな作品が残っているということは、見逃せない事実ではないかと思います。

■ 大竹久美子 (映画宣伝)

理由なき殺人があり、14歳の虚無があり、介護問題があり、恋愛があった。かつてのPFF応募作品を見ていると(もちろんすべては見ていないが)、ぼんやりとその時々のそれぞれの思いが時代とともに大きな塊りとなって押し寄せて迫ることがある。
でも今年は違った。ひと塊りにはならず、バラバラと霧散していくように作品が無に向っていく。それは何かに対する諦めのようにも、そして無からまた何かを見出そうとするあがきのようにも思えた。
何かを生み出そうとしているあがきの中には、関西弁の言葉の力をつかって突破しようとする試みがあった。そして子供を主役に据えた作品も多くあった。言葉と子供。原初にあったそれを手探りで再確認しているようないじらしさが、全体を覆っていく。でもそこにある大きな空洞は、先に光を見せることなく美しい虚無を見せつけている。
それでも人は、作り手は、恐怖で身を縮ませながら、叫びながら先に進まなければならないことを知っている。

■ 尾崎香仁 (映画監督・脚本家)

私自身、近年PFFに入選し、自主映画をつくっている立場でもあり、非常に切実に慎重に審査させていただいた。その中で「やられた!」と嫉妬、感動した作品を強く推した。まずは、強烈で社会批判的な性格の主人公に魅かれた『真っ赤な嘘』。物語を展開させるため、登場人物に、そのキャラクターから外れた行動をとらせてしまう違和感のある応募作品が多かったが、この作品のように、主人公がその人格の特性を徹底的に貫いて行動することで、物語の側が追随して動かされてゆくようなものは面白く、脚本の才能を感じた。同じような理由で『白昼のイカロス』も強く推した。この作品は、マイノリティの描き方にも感動した。アイデアの斬新さ、滲み出る念の強さが印象的だったのが『21世紀』と『ポスト・ガール』。特に『21世紀』は繰り返し観てしまった不思議な作品で、一次審査で強く推した。どの作品も特筆したい点があるが、私は特にこの4作品を記した。

■ 賀来タクト (映画ライター)

全体的に「ニュアンス」にこだわる作品が多く見られた。特定の人物、情景に着目し、細かく追い続ける手法で、一種の定点観測演出ともいえようか。対象物を見つめ続けることで何かが生みだされ、炙り出されるのを待っているだけのようなそれは、キャラクター重視の現代世情を反映しているといえるが、同時にドラマ構成の計算がなおざりになる事態も生み、いたずらに全体の尺を食うだけの間延び作品を増殖させることとなった。作家性の不在による類似が免れ得ないのであれば、映画ならではの省略、跳躍を獲得する努力が少しは払われてもいいのではないか。構築力の不足は古典作品への背信と換言してもいい。現代の人気映画ばかりに振り回されている若手作家の混迷が透けて見える。一方、扱う題材にしても現代世相に比例する作品が圧倒的で、往々にして暗い面に傾いている。こういう時代にこそ骨太な人間喜劇を放つことができる作家を個人的には望みたい。

■ 片岡真由美 (映画ライター)

予備審査は好き嫌いで選ばないことが大前提とされているが、毎回、自分の好みの傾向があぶり出される。自分はウェルメイドな作品を好むと思い知らされるのだ。二重丸をつける作品は、普遍的な感情が生き生きと表現された作品や、ユニークなキャラクターを創出した作品が並ぶ。今回は、地味めな女子大生が実家から送られてくる苺で絶品のジャムを作る『イチゴジャム』の、ツヤツヤ光るジャムを官能の世界に昇華させ、せつない乙女心をセリフに頼らず描き出す才能に感服した。また、『賽をなげろ』の、おそらく精神を少し病んでいる母親と、母親の足枷から逃れようともがく女の子、その双方の変化を鮮やかに描き出したラストに感動した。『あんたの家』の強烈なおばちゃんも、自分自身への応援歌として、きっといつまでも心に残り続ける。『青春墓場~明日と一緒に歩くのだ~』は、話が次にどう転ぶのか読めないハラハラの展開の連続で、完成度の高さではピカイチだ。

■ しだれ桜子 (映像作家)

ミニマムに分断・抽象化されたカットの連鎖が、ゆうに劇映画として成立している「21世紀」は鮮烈だった。映画を構成する、音声や時間・空間の、機能の可能性と本質を新鮮に実感する。独自の視点と洗練された感性、卓抜な表現力が、可視領域を超える霊的存在と物語を、フレームに出現させる。映っていない・映らないものが見えてくる錯覚のダイナミックな仕掛け。そうか…これは映画じゃないか!救いや答えの見つからない暗い時代を反映し、窒息寸前、手馴れ見馴れた作品群の中で、ひとつ先のヴィジョンを感じた。一方で、もっともっと規格外の価値観に出会い、脅威させられたり吹き出しまくりたかった、と思う。唯一無二の基準と創造力が、この閉塞を突破してくれる。選にはもれたが「暮れ愛でろ」のつくりたい放題には、だらしなく魅惑された。

■ 内藤隆嗣 (映画監督)

日本全国から集まった自主映画の数々を観ることで、それだけ人の部屋の中を覗き見できる貴重な機会だったのだが、実はこれが印象は薄い。自主映画監督の懐事情から当然なのだが、撮影に使える部屋と言えば自分か知人の6~8畳のワンルームマンションが関の山で、しかも中にあるアイテムはベッドにテーブル、エロポスターと大体が同じ。さらに部屋の狭さから撮れるアングルも限定されてしまい、こうも条件が揃うと切り取れる画も当然似てくる。部屋の中の撮影にはそれなりの一工夫が必要だと思った。部屋に関わらず箱モノやロケーションにこだわりがあると、それだけで作品の印象の醸成に一役買っていた。最後に、全体的に上手に作られた作品が非常に多かった。このクオリティの高さにはただただ脱帽だった。でも一方もっと自由で珍味なトンデモ作品が少なかった気がする。「自主映画なんて所詮独りよがりの…」という言い方はもはや一昔前のフレーズか。

■ 中山康人 (教師)

8ミリフィルムでの応募がまだ何十作品とあった頃に比べて今やビデオ全盛。その言葉さえ何の新鮮みもないほどだ。同時に応募作品も全く異質な変容を遂げたと感じる。誤解のないようにしたいが、フィルムを擁護しデジタルを否定するものでは断じてない。その変容とは、監督として、記録媒体に自分のイメージを定着させるときの唯一絶対的な初期衝動が見えにくくなってきているということだ。それは撮りたいものに真摯に向き合い、その場に流れる時間を獲得する衝動と言い換えてもいい。例を挙げるならば、緻密な計算のもとで撮られるフィルム撮影には「この瞬間しかない」という映像の積み重ねが映されるのに対し、ビデオ撮影には、その前後に「カメラが回っていた」らしきのりしろの部分が残されている。技術的に洗練され、明日にでも劇場公開されても遜色ない作品群の中で、監督が本当に撮りたくて撮らずにいられなかったものは何か…を、探す審査でもあった。

■ 長澤 豊 (DVDレンタル店舗経営)

私は、応募するという行為を、ある意味プレゼンテーションと捉えています。
選考作品の多くは、宣伝・広告といったセクションを持ちませんが、製作者はそれを、ないがしろにしてはいけないと思います。
例えば、タイトル。観る側に、どのようなインパクトをあたえるか?
そのためには、一文字一文字が、カタカナであるべきか?ひらがなであるべきか?事前にリサーチすることも、やり過ぎとは思いません。なぜならば私は、製作者の皆さんに客観性を求めるからです。
我が子の愛らしさに目を奪われ、撮影するパパの作品と、皆さんが製作される作品との違いは、どこにあるのでしょうか?鑑賞者を意識しているか?否か?そこが絶対的にちがうはずです。映画は、製作者だけのものではありません。鑑賞者なしには成立しないのです。
今回の選考の中にも、鑑賞者に対し、気遣いの欠けている作品がありました。
自己満足で終わらないためにも、たくさんの映画に触れてください。客観性を養うには、それが一番だと思います。

■ 丹羽愛弓 (はたおり工房講師)

私は今年初めてPFFの審査に参加させていただきました。普段ははた織りという極めてアナログな世界にいる私が、映像作品を審査するということがおこがましく思えてしまう瞬間もあり、戸惑うことも多々ありました。しかし、作品ひとつひとつには作り手の思いが詰まっていて、それを観ることはやっぱり楽しくわくわくする経験でもありましたし、心動かされる作品に出会った時は、こちらが勇気付けられるような思いにもなりました。また自分と同年代の方々が頑張っているのを目の当たりにして、ジャンルは違いますがとても刺激を受けました。自分の信じるものを発信し続けることは、大変勇気がいりますしエネルギーを費やします。でも必ずどこかで観ている人がいることを忘れずに頑張っていただきたいです。心から応援しております。

■ 樋野香織 (神戸アートビレッジセンター)

何年かセレクションに参加させていただいている。才能を見逃してはならないプレッシャーを抱え、自分の価値観に半信半疑しながら悶々と約3ヶ月間、膨大な数の作品を拝見するが、最終的には必ず私を動かす作品が現れる。
見慣れているはずの風景でも息をのんでしまう程、未知のものとして、目の前に提示されてしまう瞬間を持つ作品や、その場に或る空気を含む奥行きのある世界そのものを捉え、登場人物が確かにそこに生きている作品。今回は、前者として「21世紀」を、後者として「硬い恋人」を推した。
以前劇場に、地元ご出身という理由をつけて、学生の自主映画上映会に、著名な監督をお招きしたことがある。厚かましくも、講評をお願いしたのだが、その第一声が「好きなものを作っているようで安心しました」。そうなのだ。自主制作だからこそ、出来ることがある。今回推したどちらの作品も、そういった新しいものへの積極的な取り組みの姿勢を感じると共に、自由さに溺れない、映画に対する真摯な敬意も感じた。

■ 松本龍之介 (映画音楽)

SF調の作品やホームドラマ、サスペンス調などのエンターテイメント指向の作品はなかなか評価されづらいような気がしました。やはりそれなりにエンターテイメント性の高い作品に仕上げるにはお金をあまりかけられない自主制作では少し難しいからか完成度からするとどうしてもテレビやハリウッドの映画に劣っているからかもしれません。でもそれにも関わらずそういった娯楽作品を作ろうとしている監督達の姿勢を僕は素晴らしいと思いました。
なるべく僕は一から新しいものを作ろうとしていて、見る人を意識しているサービス精神のある作品を評価したいと思いました。僕はもっと一般の人が映画館に足を頻繁に運んでくれるような娯楽性の高い作品を撮る監督さんが将来PFFから世に出てほしいなと思います。多くの人から愛される大衆映画を撮れる人が出て来てほしいです。

■ 水上賢治 (映画ライター)

ビデオカメラが誰でも手にできるようになり、映像の長さを気にしないで撮れる制作者側の状況―今振り返ると審査の間、このことが常に頭の片隅にあったように思う。フィルム時の1度に回せる尺の限度や今もどこかの国で行われている検閲をはじめとする制約は、ハンデであると同時に、その範囲内でやり遂げようと切磋琢磨し、それが新たな創意工夫を生んだ(もちろん泣く泣く断念しなければならないことも存在するが)。逆に制約がなくなるということは、すべてのことを思うがままに表現できる可能性を持つ。もしかしたら今の時代、映画監督を志す者にはこの双方のバランスが求められるのかもしれない。自分自身に厳しい目を向け、熟考に熟考を重ねた末に導き出すワンシーンやワンカット。制約がないからこそ可能になる表現や斬新なアイデア。入選作を見ると、そこがほかよりも上回っていたと思う。ただ、その差はほんの“僅か”でしかないことを最後に記しておきたい。

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